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唯物論について考える



 左翼がどういう存在なのか、なぜ彼らは有害なのか、左翼に対する適切な批判とはどういうものなのかについて、自分の考えているところを述べていきたい。まずは左翼が信じていると言われることの多い「唯物論」という哲学について取り上げてみようと思う。

 彼らが唯物論という哲学を信じているから彼らの思考がおかしな方向にずれていくのだという批判がよく保守派の方からなされるが、私にしてみるとこれはかなり的外れだ。左翼の考え方はおかしいから、彼らの考え方の源流とも言える唯物論自体が珍妙なものに違いないという直感に基づいているのだろうと推察するが、このレベルの安直な批判が適切ではないから、彼らは批判の的外れぶりに呆れるとともに、これによって自分たちの考え方の正しさを却って確信するという倒錯した現実が生み出されているという側面があると、私は考えている。

 唯物論に関する一般的な批判は「唯物論は精神的なものの価値を見出さない」というような感じだが、この批判は唯物論批判としては極めて不適切なもので、このような批判をしてみても唯物論を正しいと思っている人には全く響かない。そもそも彼らは革命の大義という精神的なものの価値を重視し、そのためにこの世におもねることで得られる物質的な利益を犠牲にすることを清く正しく美しいと思っているわけであって、この点ではむしろ物質的な価値以上に精神的な価値を見出しているとも言えるわけだ。世の中を抜本的に変革し、貧困に苦しむ者がいなくなり、各人が各人のもてる力を存分に伸ばせる理想社会を実現することに自らの命を捧げる生き方こそ尊いものではないかと、彼らは考えている。この汚い世の中でうまく立ち回ることで得られる物質的な利益より、世のため人のために理想社会を実現するという大義、つまり精神的な価値を大切にしているのだ。

 敢えて言っておきたいが、共産党員の中にはこのような理想の実現を純朴に信じながら、自分の生活を犠牲にしているピュアでいい人が実に多い。彼らはこうした生き様を貫いている限り、自分たちの生き方が汚れたものだとは全く思っていないし、それは当然であろう。ソ連などでは酷いことも行われたが、あれこそが社会主義・共産主義の現実の姿だと言われるのは迷惑だと思っている。彼らが信じている理想の社会主義・共産主義はあのような酷い社会体制ではないから、一緒にしてくれるなと彼らは思っている。自己犠牲を厭わずに純粋に人に尽くすことを考えて行動している彼らの姿を見て、共産党のシンパになり、さらには入党する人もいる。そのくらい美しい生き様を示している共産党員も多いのだ。それだけに、彼らが本気で自分たちの生き方が根本的に間違っていたんだと気がつくような批判をぶつけていかなければならないと、私は考えている。

 脇道に逸れすぎたので、本題に戻ろう。唯物論というのは、「この世界には物質的なものと精神的なものの両方が存在するが、物質的なものの方が精神的なものよりも本源的である」というような考え方だ。そしてこの考え方は世の中を見る際にかなり役立つ側面を持つ。

 例えば、とても心優しい人が経営者になったとしても、労働者の労働時間を短くして、休日を増やし、賃金を大幅に引き上げ…みたいなことを次々にやっていくのは現実的にはなかなか難しいだろう。経営を永続させていくためには、経営する企業の収入と支出のバランスを絶対に考えないわけにはいかない。他社との競争に晒されているわけだから、未来への投資ができるように資本蓄積に励むことも必要だ。そういう観点で甘い企業は潰れていく必然があるわけで、現実の思考(精神的なもの)がそうした物理的な条件(物質的なもの)によって枠づけられていると考えることは、現実を無視している議論だとは決していえないだろう。こうした側面から実際に現れる人間の行動を捉えようとするのが、「この世界には物質的なものと精神的なものの両方が存在するが、物質的なものの方が精神的なものよりも本源的である」という唯物論的な捉え方だ。こういう側面を意識的に見ていこうとすることによって、以前には見えなかったものが見えてくるということは、実際によくある。この点で、唯物論は案外と役に立つものの見方である。

 そしてこのものの見方は、科学的なものの見方とも親和性が高い。何らかの物理現象を合理的に説明しようとした場合に、先入観(精神的なもの)で勝手に解釈するのは適切ではなく、まずは先入観を排して客観的なデータ(物質的なもの)を積み上げることから始めるべきである。客観的なデータ(物質的なもの)が映し出すものをベースに解釈(精神的なもの)を行うべきである。自分が考えた解釈がどんなにスッキリしていると思われたとしても、その解釈を否定するようなデータが出てくることになれば、その解釈は捨てられなければならない。現実の物理現象を正確に捉えるためには、恣意性を排除したデータ(物質的なもの)に基づいてこれらのデータを全て説明し切れる解釈(精神的なもの)を生み出す他ない。彼らがマルクス主義を「科学的社会主義」と名乗るのは、こうした科学的なものの見方と唯物論との親和性の高さに由来しているのである。

 今の自分が厳密な意味での唯物論者かといえばそうではないが、とはいえこういうものの見方から世の中を見ることを完全に放棄しているわけでもない。一つの見方として取り上げる価値のあるものの見方であり、唯物論だからダメなんだと排撃する必要は現実には全くないと考えている。

 問題は、実は彼らは唯物論者を標榜しながら、実際には唯物論的な思考をまるで行なっていないことなのだ。ここにこそ、彼らの最大の矛盾がある。

 例えば、国家の安全保障というものを唯物論的に考えるならば、「みんなで平和な世の中を作りましょう」といった理想は単なる観念(つまり精神的なもの)にすぎず、それを実現できる物理的な条件(つまり物質的なもの)がなければならないはずだ。中国がどんどんと軍拡を推し進め、周辺国に圧迫を加えているという物理的な現実に対しては、それに対抗できる軍事的な力の存在(つまり物質的なもの)が必要になるはずだが、彼らはこうしたものをまともには考えないわけだ。そして「平和主義に基づき話し合いを行うことで平和を実現する」という完全な観念論(空論)を展開する。

 平和憲法のもとで平和を唱え続けたことで、我が国を取り巻く諸外国は日本の平和憲法に配慮して我が国の脅威となるような軍備を差し控えてくれただろうか。北朝鮮は日本の平和憲法など無関係に核ミサイル開発を続け、中国は1989年からの30年間で軍事費を10倍以上に増やすということを行った。バブル経済崩壊後に日本のGDPはほとんど伸びを見せていないから、GDP比1%枠に縛られている日本の防衛費もこの30年間ほとんど横ばいであるのに、中国は日本が急速に軍事大国化しているとのウソを広めながら、公称でも日本の約4倍(実質的には恐らく日本の10倍程度)という、東アジアでは突出した軍事支出をする国になっている。そしてそうした強い軍事力と経済力を背景にして、中国に逆らえないような圧力を周辺国にかけて中国は国益を実現している。中国はさらに軍事力を強化し、南シナ海への軍事進出を加速化し、米中の軍事バランスを崩すことによって米軍がこの地域での覇権を諦めて撤退することを戦略として考えている。中国も北朝鮮も唯物論的視点から軍備増強を行うことが自国の国益を実現するために欠かせないと判断して実行しているわけだ。中国に至っては、やがて東アジアと東南アジアから米軍を撤退させてこの地域に地域覇権を確立したいという思惑が見え見えになってきた。米軍の撤退が実現すれば、自力では自国を守るだけの防衛力のない日本は中国の言いなりになるしかないだろう。力(つまり物質的なもの)のない国が正論(つまり精神的なもの)を言ったところで世界は相手にしてくれない。軍事力という物質的なものを背景として認めないと、国際政治の力学は理解できないことになる。

 一般均衡理論の動学化を打ち立てたり、数理マルクス経済学を創設するなど、経済学の分野で稀有な業績を挙げたことでも知られ、「ノーベル経済学賞に最も近い日本人」とかつて言われていた森嶋通夫氏は、文藝春秋で以下のような見解を語っていたことがある。

 万が一にもソ連が攻めてきた時には自衛隊は毅然として、秩序整然と降伏するより他ない。徹底抗戦して玉砕して、その後に猛り狂うたソ連軍が殺到して惨澹たる戦後を迎えるより、秩序ある威厳に満ちた降伏をして、その代り政治的自決権を獲得する方が、ずっと賢明だと私は考える。日本の中さえ分裂しなければ、また一部の日本人が残りの日本人を拷問、酷使、虐待しなければ、ソ連圏の中に日本が落ちたとしても、立派な社会ーたとえば関氏が信奉する社会民主主義の社会ーを、完全にとはいえなくても少くとも曲りなりに、建設することは可能である。

 現実に攻めてこられたら降伏するしかないという森嶋氏の主張は潔い。その際には必死に抵抗するよりも、粛々と降伏をした方が人的犠牲も物的犠牲もはるかに小さいというのも正しいだろう。だが、そのように我々が振る舞ったら、征服してきた相手側が我々に我々が望むレベルの政治的自決権を与えてくれると思っているところは完全なる観念論(空論)だろう。そもそも相手はなぜ日本に攻めてくるのかと言えば、話し合いでは解決しないと判断したからだろう。そしてその話し合いで相手が望んでいるのは「俺のいうことを聞け」ということであり、話し合いによって道理に基づいた落ち着きどころを真剣に探るなんてことは、力の均衡が保たれていなければ、行おうとするわけがない。「俺のいうことを聞けないなら軍事攻撃もありうるからな」と伝える「話し合い」を避けようとすれば、我々の側にそれに対抗できるだけの軍事力が保持されていることが必要になる。それがないから降伏するしかないわけだろうが、「秩序ある威厳に満ちた降伏」をしたところで、日本らしさを十分に残した「政治的自決権」が保証されるとは言えないだろう。森嶋氏の言う政治的自決権が、中国の新疆ウィグル「自治」区とかチベット「自治」区のようなレベルになってしまう可能性だってありうるわけだ。

 新疆ウィグル自治区は東トルキスタン共和国として、清朝や中華民国からの独立運動が展開され、一時的には不安定ながら政権の樹立まで進んでいた地域である。実際の経緯は非常に複雑であるが、国共内戦を制した中国共産党に恭順することで新疆ウィグル自治区となったところだ。石油と天然ガスが豊富で、中国から西方へ展開する場合の交通の要所でもあることから、この地域の独立は中国共産党としては絶対に認められないだろう。中国共産党はこの地域を完全に漢民族の土地とするために、この地域に住むトゥルク系の民族を根絶やしにする政策を展開した。「計画生育」の名の下に、トゥルク系住民が身篭った1000万人ほどの胎児を強制堕胎させ、トゥルク系住民同士の結婚を妨害し(つまりトゥルク系住民と漢人との結婚を行わせて純粋なトゥルク系住民を減少させ)、「反体制派」とみなされた百万人単位の人たちを強制収容所に送っている。強制収容所ではイスラム教徒である彼らにイスラム教で禁止されているアルコールや豚肉の摂取を強要している。さらに政治犯として捕まると、臓器提供の「ドナー」にさせられてしまう。自発的な臓器提供者ではないので、「ドナー」と呼ぶのは本来適切ではないのだろうが、私の言いたいことはわかるだろう。白血球の血液型であるHLAが一致するドナーが見つからないと臓器移植ができないため、臓器移植の手術を受けるには何年も待たなければならないのが日本でも欧米でも普通のことだが、中国ではお金さえあればすぐに臓器移植が行える。4時間以内に臓器が手配できるとの広告が中国ではなされていて、2時間で手配できた例もあることを紹介したドキュメンタリーをBBCは放送している。長くても数週間以内に手術が受けられると言われている。それはこうした大量の政治犯をドナーのプールとして使っているからである。新疆ウイグル自治区のカシュガル空港には「特殊旅客、人体器官運輸通道」という移植臓器専用通路が設けられているが、このことは移植用の臓器が極めて頻繁に空港に届けられていることを裏付けている。つまり、臓器移植のドナーとして利用するために生きている政治犯を殺害しているわけだ。中国では臓器移植は非常に大きな利益を生むビジネスとなっている。新疆ウィグル自治区は中国の核実験場としても使われてきて、多くの放射線障害を生み出していることも見逃すべきではないだろう。このように、武力抵抗を捨てて進んで恭順した結果として「自治区」となったところにおいて、かくも苛烈な民族弾圧が行われているのが実際なのである。森嶋氏の言う「秩序ある威厳に満ちた降伏」が、日本をこうした自治区同様の状態にさせてしまう可能性を我々は無視するわけにはいかない。

 チベットについても同様である。清朝時代に清朝の保護国という位置付けにあったチベットは東トルキスタン同様に清朝崩壊後から中国国民党と中国共産党の干渉に晒されてきた。最終的には中国共産党の人民解放軍との戦いに敗北し、チベットは中国のものとされてしまった。なお、チベット人が考えているチベットはチベット自治区だけではなく、それよりもはるかに広大な領域であるが、詳述は避けておく。1950年から1976年までの推計でも、餓死者・自殺者を含めた中国共産党によるチベット人犠牲者数は120万人を超えるとされている。チベット人は600万人程度と推計されているので、ざっと5人に1人が殺されている計算になる。強制堕胎があったり、チベット人同士の結婚を妨害したり、臓器移植の犠牲者となる政治犯がいるといった点では、東トルキスタンと変わらない。チベットでは中国共産党の支配に対する抵抗として、チベット仏教の僧侶が路上などの目立つ場所で焼身自殺をするという事件が相次いでいる。インドに亡命しているダライ・ラマが過激な武力闘争をさせないようにしていることから、ガンジーの非暴力・不服従運動に倣った抵抗運動として行われているものだ。だが、こうした不服従運動を世界のマスコミがほとんど報道してこなかったため、チベットを支持する国際世論を形成する点では実際の効果をほとんど上げていないという悲しい現実がある。既に焼身自殺を行なった僧侶は150人を超えているのにだ。チベットでは「愛国教育」のために、彼らの精神的支柱であるダライ・ラマを罵ることさえ強要されている。雪深いヒマラヤを超えてダライ・ラマの元に向かおうとしていた70名ほどの僧侶たちが一列に歩いているところを、人民解放軍兵士が遠くから次々と射殺している映像がYouTubeに上がっている。(「中国軍チベット巡礼者殺害映像」で検索すると出てくる。)年間3000名ほどがネパール経由でインドに亡命しようとしているが、半数以上が捕まったり殺されたりしているようだ。ダライ・ラマが過激な武力闘争を禁じ、おおむねは安寧が保たれていても、苛烈な弾圧は行われているのだ。森嶋氏はこうした現実が隣国で展開していることをご存知なかったのだろうが、こうした現実が起こる可能性があることをリアリティーのあることとして我々は考えなくてはならない。

 そもそも共産主義者は「資本家と労働者が話し合うことで、理想的な企業や社会が実現する」という考え方を観念論(空論)として排撃し、革命がなくては労働者の生活を真に守ることなどできないと考えているのではなかったか。同一民族・同一国民としての一体感を多少なりとも感じている人々の間ですら断じて成立しないと考えている話が、そうした一体感をほとんど持ちえない他国・他民族との間では成り立つと主張しているという矛盾は、一体どのように理解すれば説明がつくのだろうか。彼らは唯物論を標榜しながら、現実の思考は唯物論にはまるでなっていない。

 彼らは「唯物論を唱えているからおかしい」と批判されても、的外れな批判をされているとしか思わない。科学的に客観的に世の中を見ようとすれば唯物論になるのが当然だと思っているわけだから、唯物論を攻撃してくる人たちはなんと非科学的なものの見方をするんだろうと思い込んでしまうのだ。唯物論批判をされると、むしろ筋の通らない論によって自分たちは理不尽に迫害されているのだという気分にすらなる。そしてそうだからこそ、彼らは意固地になっていく。だから彼らに対しては唯物論批判はするべきではない。

 彼らに対して批判をするなら、唯物論を標榜しながら、どうして現実に国際情勢や国家の安全保障の話になると、観念論になっても全く矛盾を感じないのかというところを突くべきだろう。そして彼らが実際には観念論に傾倒しているのは、決して国際情勢や国家の安全保障の話に限らない。それこそありとあらゆることが観念論のオンパレードだと言っても過言ではない。その矛盾に彼らは気がついていないところに大きな悲劇がある。

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