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国家というものの捉え方



 今回は共産主義者の考える国家について考えてみることにする。

 共産主義者の考えでは、国家は階級対立の産物だということになる。豊かな少数派と貧しい多数派とが階級的に分化していくと、この両者の間では階級的な対立が起こるため、豊かな少数派が貧しい多数派を押さえ込むために国家という機構を必要とするようになったと捉えるわけだ。つまり、国家というものの本質は階級支配を維持するための機関であって、これを見誤るべきではないと考えていく。そして、貧しい多数派にその本質に簡単に気づかれてしまわないようにみせかけの公共性(例えば、外敵から自分たちを守る機構が必要だといったこと)を装う必要があるが、そんな見せかけの公共性に騙されてはいけないと説くわけだ。国家は自国を脅かしてくる敵国の存在といった外的な必要性から生まれたものではなく、社会内部の階級分化という内的な必要性によって生まれたものだと捉えるわけだ。

 なお、共産主義者における「国家」とは、「軍隊や警察といった常設の「暴力装置」を持ったもの」という感じなので、私たちが普通に頭に浮かべる「国家」とはややイメージが異なる。軍隊や警察に対して「実力組織」のような用語ではなく、「暴力装置」というネガティブな印象を与える用語を敢えて付けているところにも、意図が当然あるわけだ。細かすぎるかもしれないが、こういう用語の付け方にもまずは主観を排除して科学的に捉えよう、すなわち唯物論的に捉えようという態度とは言えないものを感じる。それはともかく、私たちが普通に抱く「国家」とはイメージが違う捉え方をしているという点については敢えて追及しないようにした上で、彼らの考え方を考えてみよう。

 確かに軍隊は外敵に対してのみ向けられるものではなく、内部を混乱に陥れる者たちにも向けられることがある。そしてそれは支配層にとって都合の悪い被支配側の反乱を鎮圧するために用いられる可能性もありうる。その点を取り上げれば、階級支配に利用するための「暴力装置」として軍隊や警察があるという捉え方も実際できるし、実際にそういう目的のために軍隊や警察が大いに利用されている国家も存在する。また、そうした色合いが薄い国家であったとしても、いざ社会動乱が発生すればその鎮圧のために持てる「暴力」を利用せざるをえないということもあるわけで、それを現体制を擁護したい階級的な利害に基づくものだと規定すれば、こうした「暴力装置」が存在するのは階級利害に基づくものなのだとの主張も成り立ちえないわけではないだろう。

 しかしながら、軍隊や警察が存在する理由をこういう点こそを本質だとみなす主張はやはり現実を冷静に把握した結果だとは私には思えない。まず、国家が持つ軍隊の規模や強さが外敵の脅威の程度によって大きく増減することを、この理論では説明できないだろう。

 桓武天皇は唐や新羅の軍事的脅威が大きく低下したのに伴って軍団を縮小・廃止し、一般農民の兵役の負担をなくしている。代わりに健児(こんでい)の制が敷かれたではないかという主張もあるかもしれないが、健児は国ごとに数十人、多くて200人という規模でしかなかった。国内の治安維持にも問題が生じそうなレベルにまで軍事を嫌ったことが、後に武士政権を生み出すきっかけになったのは皮肉だが、それはともかくとして、この事実は「国家=対内的な暴力装置」という図式が必ずしも成立するものではないということを明確に示している。治安を乱す行動が社会内部で大した問題とならないレベルにとどまるのであれば、階級に分化した社会にあっても、階級支配的な「暴力装置」として軍事力を保持する必要性はほぼ無視できるほどに小さくできる場合もあるわけだ。桓武天皇の時代は明らかに階級社会ではあった。だが、分化した階級が階級的利害に基づき反目し合うものだという前提は成り立っていなかった。上の階級が下の階級を必ず「暴力装置」を用いて抑圧的に支配するというのはマルクス主義的な思い込みにすぎないということが、桓武天皇の事例からわかると言えるだろう。

 さらに言えば、国家権力の内的な必要性ということに限っても、階級的な色彩を必ずしも帯びるものでもない。例えば、商品を買っても代金を支払わおうとしない人は、どんな社会でもかならずいるわけであって、こういう不法行為をできるかぎり取り締まるためには最終的にそれに従わせる強制力というものが必要になる。オウム真理教のような狂信的な団体がテロ行為を起こすこともあり、こうしたものを取り締まるために国家権力が必要になるというのは、階級的な必要性とは何の関係もないだろう。オウム真理教はブルジョワ国家権力に抑圧された労働者階級の団体だったわけではあるまい。無茶苦茶な働き方を労働者に強いるブラック企業も当然取締りの対象なのであって、経営者側も当然こうした法に服さなければいけない立場にある。経営者と労働者は利害が対立することが当然ありうるから、これを調整するために労働法が規定されることになるわけだが、いわゆる先進資本主義国家では労働法はむしろ経営者にとって厳しいものとなっているのが一般的だ。資本主義国家であるならどんな国家であったとしても階級的な観点から資本家階級を利するように法というものも仕組まれているにすぎないというのは、現実を歪んで捉えることにほかならないわけだ。

 そして外敵が強ければ、それに備えた軍事力は当然必要になり、それは国内の秩序維持に必要なレベルを遥かに超えることになる。であるならば、軍隊の必要性は内的な要因よりも外的な要因によって規定される部分が遥かに大きいと考えたほうが現実的だと考えられる。少なくとも発達した民主主義国家においてはそうだ。軍隊を大きくするとそれだけ強力に庶民は弾圧される立場に陥るかのような捉え方をし、わずかな軍備増強についてもヒステリックに反応するのは、現実離れした被害者意識に基づいたものにすぎない。

 国家がどのような性格を持っているかは、一方的な決めつけで捉えるべきではない。確かに支配層が国民を弾圧するために国家権力を濫用しているようなところも世界を見渡せば結構あるわけだが、階級支配の道具という性格が薄れ、国家としての一体性を保ちながら国民全体の利害調整を行っている国家もあるわけで、日本もそうした国の一つだと考えるほうが適当だろう。

 「国家」と聞けば無条件に「悪」だと決めつけ、国家権力を削ぐような仕組みはどんなものでも善であると考えるような思考法は歪んでいる。国民の生存と安全のためには国家権力は必要なものでもあり、外敵との関係にあってはどんどん強化していかなければならない場合も時にはあるわけだ。先入観という観念的なものを排して、丹念に事実を積み上げる中で日本政府がどのような性格を有するのかを冷静に捉えていくべきだろう。こうした唯物論とも合致するものの見方を左翼が行っていないことを、彼らに突きつけていくべきではないだろうか。

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