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共産主義の魅力



 ここで共産主義がどのような背景で生まれ、急速に広がることになったのかについて、簡単に眺めてみよう。

 まず知ってもらいたいのは、共産主義はもともとは19世紀という歴史性を持った考えだということだ。(ここで言う共産主義とは、カール・マルクスによって築かれた、いわゆるマルクス主義のことだ。)

 マルクスが共産主義の理論を打ち立てた19世紀というのは、自然科学上の発見が本格的な近代工業の発展に大きく寄与するようになり、人々の暮らしにも大変容をもたらすようになった時代だ。近代的な工場が生み出され、技術革新によって工業の生産性がどんどんと高まっていった。これによって時代の波にうまく乗った経営者が大金持ちになる一方で、そこで働く労働者には悲惨な現実が待っていた。

 ではその生活実態とは具体的にはどのようなものだったのか。カール・マルクスの盟友のフリードリヒ・エンゲルスは「イギリスにおける労働者階級の状態」という本を書いているが、その中で8〜9歳の子供たちに食事時間や休憩時間を含めずに1日14時間から16時間の労働をさせているとか、中には5〜6歳の子供でも雇う場合があるとか、連続で30時間とか40時間働かせる実例もあるとか、9畳程度の広さの中で夫婦と子供併せて6〜7人が暮らしているということが珍しくないとか、凄まじい話がたくさん出てくる。

 ここで理解をしておきたいのは、こうした現実に対して当時の哲学も経済学も全く無力であったであったということだ。例えば当時の経済学の主流派の考えは、経済は神の見えざる手によって自動的に調節されるようにできているから、国家が経済に介入するのは最小限度に留めるべきだというものだった。ものすごい勢いで大金持ちになっていく資本家がいる一方で、絶望的なほど悲惨な暮らしを強いられる多数の労働者がいるとしても、それは市場の需給関係を反映したもの=市場の最適配分の結果でしかないと考えるわけだ。過酷な労働をしたくなければ仕事を辞めるのは自由なんだから文句を言うのは筋違いではないか。もっと高い給料を支払わせようとしても、高い給料では雇おうとする資本家の数は減ることになるから、失業の憂き目に遭う労働者が増えることになる。それでもいいのかというのだ。

 現実にとても見過ごせない非人間的な状況がありながら、この状況を解決できる理論がなかったわけだ。そして従来の理論によれば、これは最適配分の結果、つまり経済学的にはベストの状態なのだということになる。そんな社会問題を解決できない理論を学問と呼んでいいのか…これがマルクスの問題意識だ。マルクスはこの問題を解決する理論を自分で編み出して根本的な解決を図りたいと思い、研究に没頭する。そして哲学・歴史学・経済学・政治学を横断する壮大な学問体系を築き上げた。

 18世紀から19世紀は科学上の発見が相次いでものの見方に革新が生まれていた時代だ。19世紀はドルトンが原子説を唱え、アボガドロが分子説を唱え、メンデレーエフが元素の周期表を作り、ダーウィンが「種の起源」を著したような時代だ。新しく発達してきた科学的なモノの見方に非常に高い信頼が寄せられるようになった時代だ。マルクスは科学的・合理的な思考を自然科学だけの思考とせずに、哲学や社会科学にも適応すべきだと考えた。旧約聖書には神は自らの姿に似せて人間を作ったと書かれているが、実は人間が自らの姿に似せて神を作ったのが実際ではないか。神は人間の想像が生み出したものにすぎない。しかも人間の考えというものは、時代や環境を超越したものではなく、むしろ時代や環境に大きく規定されているものでもある。世の中が動けば考え方も変わり、その考え方の変化が社会にも影響を及ぼしていく。そういう様々な変化の中でぶつかり合う動きも様々あるわけだが、そのぶつかり合いが押し合いへし合いしながら新たな変化を作り出していくと捉えるのが現実的な捉え方ではないか。彼が考えた弁証法的唯物論とは、単純化すればこのような考え方だ。

 彼はこのものの見方を歴史の流れを捉えるところにも応用した。それが史的唯物論と呼ばれている。この史的唯物論を捉えるのに大切な概念として、生産手段と生産関係というものがあるので、まずはそれから理解しよう。

 人間が生産活動を行うためには、土地と資本と労働が必要になる。例えば農業においては、農地(土地)において種や農機具(資本)を用いて人間が耕作(労働)を行うことで農産物ができるわけだ。工業においては、工場(土地)に据えられた機械や原材料(資本)を人間が操作(労働)することで工業製品ができるわけだ。このうち労働は実際に働く人間からは切り離せないが、土地や資本や実際に働く人の所有である必要はない。地主の土地で地主の持つ農機具を借りながら農作業を行う小作人もいるわけだし、工場労働者が会社の土地や機械を所有しているわけではない。このような労働以外の2つの要素(つまり、土地と資本)のことを生産手段と呼ぶ。

 これに対して生産関係とは、生産が行われる上において結ばれている人間相互の関係のことだ。これは単純に資本家が労働者を支配するのが資本主義の人間関係だという話だけではない。資本主義においてモノの生産を効率的にするためには、分業が高度に発達するというところもマルクスは見ている。これは1つの社内において分業がどんどん進んでいくということだけを意味するわけではない。様々な会社が分業することによってものづくりが成り立ち、その複雑さはどんどんと高度化していく。例えばトヨタの車の生産に関わっている部品メーカーは何百社か何千社かあるはずで、そうした会社の共同作業によって初めてトヨタ車が完成車として出荷できるようになっている。このように分業のレベルが複雑・高度化していくことを生産関係の社会化と呼んでいる。

 近代資本主義においては生産手段は資本家の私的所有のままであるのに対して、生産関係は社会化されている。つまり、どのくらいの生産量が好ましいかは生産手段を所有する資本家が個別企業ごとに個別バラバラに勝手な見通しを立てて行うのに対して、現実の生産関係は社会化された高度な分業体制になっているので、そこに矛盾があるというのだ。1種類の部品が不足していても完成品はできないわけだが、どの部品をどの数量を作るのかは各社がバラバラに判断するから、不足する部品が出てくることは当然ありうるだろう。各企業は社会全体の需要見通しに合わせて生産しているわけではないので、見通しの甘さから過剰生産に陥ることだって起こるだろう。

 では生産手段の所有状況と社会化された生産関係との矛盾はどのようにすれば解消するのか。それは各社ごとにバラバラに仕事をしてはうまくいかないほど高度に分業した生産関係に合わせた生産手段の所有関係に移行すればよいのだ。すなわち、生産手段の所有を私的所有から公的所有に変換すればよい。社会的に求められる需要量に合わせた生産量を計算し、それをみんなで分業するとすれば、生産の過不足なくバランスの取れた経済が実現できるはずだ。そこには支配―被支配の関係はなく、社会全員が平等な世の中が生まれる。過剰労働や不当なプレッシャーから解放され、人間が人間らしく生きられる条件が初めて実現できる。これが社会主義・共産主義だ。

 歴史においては傑出した英雄が出てくることによってある国が突然強くなることもあるし、愚かな指導者によって国が衰退し滅ぶこともあり、意外な合従連衡もあれば裏切りもあって、表面的には固定された筋書きも法則性も感じられないドラマに溢れている。だが生産手段と生産関係から規定される経済システムという見地から考察すれば、世界はいずれも原始共産制→古代奴隷制→中世封建制→近代資本主義という歩みをしてきたのだとマルクスは規定する。つまり、このような物質的基礎に基づいて歴史を眺めるならば、そこには個々人の思惑といったものを超えて歴史の底流に流れる法則性のようなものが浮かび上がってくるというわけだ。そしてこれまでの歴史がこのような科学的な法則性に従って進んできたのであるなら、今後の歴史もまた同じ法則性に貫かれて進んでいくはずである。すなわち、資本主義における生産手段と生産関係の矛盾(生産手段の私的所有と生産関係の社会化との矛盾)から社会主義・共産主義へと社会が移っていくのは歴史的な必然なのだというわけだ。このようなモノの見方を、唯物論を歴史に応用したということで、史的唯物論という。

 さて、ここでよく考えてもらいたい。一方には勃興する資本主義の波にうまく乗って大金持ちになる資本家がいる。もう一方には劣悪な労働条件のもとで1日に16時間とか働かされている人達がいる。その中には子どもたちも多数含まれており、そういう過酷な環境で短い生涯を閉じざるをえないことも多い現実があるわけだ。仮に自分がたまたま運良く裕福な家庭に生まれ落ちたとしても、あまりに理不尽な環境で生きていかなければならない膨大な貧民たちの存在を知れば、そこに胸を痛めるのは自然なことではないだろうか。そして貧民たちの過酷な現実に激しく心を痛めている純真な人なら、彼らをそんな現実から救い出すような学説に触れたら、心が鷲掴みされることは大いにあるだろう。

 しかもこの学説は信じるものに陶酔感を与えるのだ。この理論が指し示す方向に自分の生き方を重ねていけば、自分は人間の歴史を進歩の方向に推し進める一翼を担うことができる。階級差別のない真に平等な世界を切り開くことの一助となることができるとしたら、人類史においてこんなに輝かしいことはないだろう。どんな困難があっても、どんな弾圧を受けようとも、屈しないで戦い抜くとすれば、それこそ人類に貢献する究極の生き方ではないか。

 そもそもマルクス自身がもともと裕福な家庭に生まれ育ちながら、貧しい人たちを救い出す学説を完成させ、またその学説に基づいて世の中を変えることに没頭し、貧苦にあえぐ生活に飛び込んでいったのだ。貧乏生活の中で我が子を次々と亡くしていくのだが、その子たちを入れる棺を買うお金もなかったと言われている。

 本来なら単なる一学説にすぎないはずの共産主義が急速にエリート層に浸透していった背景には、あまりに過酷な暮らしを強いられている貧しい人たちを救い出すことを目的として生み出された理論が共産主義しかなかったという事情があるのだ。マルクスの殉教者を思わせるような姿にも感動がある。この理論を実践することによって人類を前進させる歴史的な役割を果たせるのだという確信が、純真な若者の心を捉えて離さない魅力であったことを、ぜひ理解してもらいたいのだ。

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