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共産主義の変節



 マルクスは、急激に発達した資本主義においては自然と社会主義が準備されると考えていた。分業体制というのはみんなが協力してものづくりに携わる体制だ。つまり、分業体制においては労働者は個別バラバラな存在ではなく、生産目的に沿って協力し合う存在となるわけだ。共通の目的に向かって力を合わせることを資本主義体制の中で自然と身に着けていくのであれば、労働者たちが自分たちを解放するという目的、つまり社会主義を実現するという目的のために、力を合わせる力も自然とつけていくだろう。実際、当初は非合法とされた労働組合が、社会不安の高まりもあって認められていき、労働者の組織力は格段に高まった。

 貧しい労働者にも選挙権を求める運動が広がり、普通選挙が実現されるようにもなった。議会活動を行う政党も、大量に存在する貧しい労働者の票を獲得するためには、労働者の生活水準の向上につながる政策を取り入れようとする。健康保険制度が生まれて、毎月保険料を支払っていれば安価な費用を負担するだけでちゃんとした医療が受けられるようになるとか、退職後に年金が受け取れるようになるといった福祉制度も整えられるようになっていった。

 こうした流れは表面的には資本主義が修正されて社会主義に近づいた動きのように思われたが、皮肉なことに、革命を求める力が逆に削がれていったのだ。マルクスは資本主義が発達すればするほど社会主義が近づいてくると考えていたが、資本主義が発達して普通選挙が実施され、労働者保護や社会保険などの社会制度が整うようになると、却って社会主義が起こりにくくなっていくという矛盾が生み出されてしまったのだ。

 よく知られているように、世界で一番最初に社会主義革命が成立したのはロシアだ。ロシアは遅れた資本主義国であり、社会主義に移行する歴史的段階ではないと一般的には考えられていたから、この事件はまさに歴史の皮肉だ。

 しかし、これは単なる歴史の皮肉ではなかった。というのは、資本主義の発達段階に関わらず、革命を起こすことはできるとする新たな革命論に基づいて引き起こされたものだからだ。

 日頃は強力な国家権力であっても、外国と戦争を闘っている時には必ず疲弊することになる。普段は国内の治安維持にも使える軍隊が外国との交戦で手一杯になっている上、国内の生産力の多くを戦争遂行に向けざるをえないから、国民生活は必然的に苦しむことになる。最初は耐乏生活に我慢していても、ずっと続いていくとやがてはこれ以上は我慢できないという気分に変わっていくものである。食料が満足に届かない日々が続いたとしたら、戦争なんだから仕方ないと思い続けるのはなかなか難しいだろう。国家権力が弱くなり、国民の不満が高まる中で反戦運動を組織して自国を敗戦させるように仕向けようというのだ。国民の窮状が広がれば、軍隊内においても反逆する勢力が出てくることがある。反旗を翻した軍隊を味方につけることができれば、国内の混乱はさらにひどくなり、この混乱に乗じて政権奪取を図ることができる。戦争を内乱へ転嫁させ、内乱に勝利することで革命を達成するという道筋が描けるのだ。これを「革命的祖国敗北主義」という。

 大事な点なのでもう一度確認しておきたいのだが、これはマルクスがもともと考えた考え方とは随分違う考え方だ。マルクスは資本主義が成熟する中で社会の中に社会主義が準備されると考えた。分業が複雑化・高度化し、生産の社会化が進むのに対して、所有関係は私的所有に基づき、1つ1つの会社は別個にそれぞれの利益を追求するための身勝手な生産計画を立てる。ここには矛盾があり、社会はますます社会主義を欲しているのが明らかになる。だからといって資本家が自発的に自分たちの私的所有を明け渡すことはない。この権力の移行には暴力的な処置=革命も必要になる。マルクスの考えはこんな感じだ。

 これに対してレーニンが唱えた「革命的祖国敗北主義」は随分と違う。資本主義が未だに十分に発達していなくても、戦争→敗戦→内乱という混乱状況であれば政権を奪い取って革命を成就することができると考えるわけだ。そしてこれはよく考えれば、実は謀略的なクーデターと大差ない話にすぎない。そして実際、レーニンがボルシェビキ(ロシア社会民主労働党のレーニン派)の勝利に導いたロシア革命(10月革命)も、貧しい労働者や農民の大半の支持を背景にした国民的な運動の広がりの中で起こったというよりは、首都ペトログラード(現在のサンクトペテルブルク)という極めて限定的な場所のみで人為的なクーデターを謀略的に突然仕掛けたような感じなのだ。

 当時のロシアの首都ペトログラードではレーニン率いるボルシェビキ派の軍の勢力が優勢だった。だからレーニンは軍事蜂起すれば簡単に首都を制圧できるからやろうぜと何度も仲間をせっついていた。ところがボルシェビキの中においてもなかなか武装蜂起しようという流れにならなかった。逮捕を恐れたレーニンはずっと地下に潜伏していて、仲間に手紙を出して何度も武装蜂起せよとの檄を飛ばしていたのだが、ボルシェビキの中央委員会にも出席していなかったので、その影響力は限られていたのだ。10月革命のほぼ1ヶ月前の9月15日に開かれたボルシェビキの中央委員会でも、レーニンの主張に賛成した委員はほとんどいなかった。そこでレーニンは10月10日の中央委員会には登場することにし、そのカリスマ性にものを言わせて武装蜂起を承認させた。だがその時も10日後の10月20日に蜂起しようというレーニンの提案には賛同は得られず、武装蜂起の日程は先送りとなった。その後も粘り強くレーニンは中央委員たちの説得を続け、10月24日にようやく武装蜂起にこぎ着けたというのが実際だ。この日、ペトログラードの一般市民でこんな武装蜂起が近々あるかもしれないと感じていた人はほとんどいなかっただろう。それほどにペトログラードは平穏だったところで武装蜂起が突然起こって、「革命」が成立したのだ。

 公正を期すために、ボルシェビキ派の軍隊が優勢だったことについての説明を加えておく。長引く戦争で若い働き手を戦場に取られた農村では農業の生産力が落ちていた。それだけでも農村は疲弊していたわけだが、出来上がった食料は当然ながら戦場に優先的に送られていたから、農村の困窮は実に厳しいものとなった。当然ながら、農村だけでなく都市部でも食料が大いに不足することとなった。その上戦争ではなかなか勝利を収められず、戦死者もどんどん増えていた。戦地にいる兵隊たちのもとには田舎からの仕送りや手紙も送られていたから、それらを通じて田舎の窮状を前線の兵士たちも感じ取っていた。早く戦争は終わらせてもとの生活に戻りたいという声が高まり、これによって皇帝が退位に追い込まれるような事態(2月革命)にもなっていた。思ったような戦果が得られない中で、国内の治安部隊の中から勝てそうにない戦場に新たに送られる部隊も出てきて、軍隊の内部においても戦争をやめたいと思う勢力が強くなってきた。当時のロシアの政治勢力の中で戦争の即時中止を訴えていたのはボルシェビキだけだったので、ペトログラードの中にいる軍隊の中ではボルシェビキ派が優勢となっていたのである。彼らはロシア国民の声をそれなりに代弁する勢力になっていたのだ。それでもペトログラードの中での軍事的な優越を根拠にクーデター的に政権を奪ったという構図は変わらない。

 ともかく、このレーニンの「成功」によって、資本主義が発達していないところでも謀略的に「革命」を引き起こすことができるというのが社会主義の理論になったわけだ。理想社会が実現するなら、この程度の謀略なんて小さいことだとレーニンは考えただろうし、社会主義を理想社会だとみなす人たちも、現実に社会主義政権が誕生した事実に圧倒され、謀略によってできたという事実を過小評価するようになった。

 このロシアの経験は、戦争という国家の非常時においても、国民生活にあまりに過度な犠牲を強いるようなことを行えばおかしなことになりかねないとか、軍隊を含む国家全体のマネージメントにおいて緻密さが欠けているとそこを反体制派につけこまれることがありうるということを示している。そして当時のロシアはこういう点で本当にダメダメな国だったということがわかる。そしてそれは逆に言えば、国民生活に対する必要な配慮を行い、そのための制度設計ができていて、軍隊などの実力部隊の適切な管理もなされているような国においては、革命は起きようがないということを逆に表しているとも言えるのだ。こうしたところに着目すると、高度に発達した資本主義国では労働者保護政策とか福祉政策とかがある程度整備されるようになるから、却って革命が起きにくくなっていくのだ。資本主義がそれほど発達していない国とか、国家総力戦を戦って極度に疲弊している国であれば、優越した軍事力を押さえて謀略的に動けば革命は起こしうるというのが、レーニン以降の社会主義革命の基本方針となるわけだ。

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