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ボルシェビキと民主主義



 10月革命によって首都ペトログラードをクーデター的に制圧した(正確には制圧しつつあった)ボルシェビキは、自分たちがリーダーシップを取る全ロシア・ソビエト大会で「平和に関する布告」と「土地に関する布告」を発表した。

 「平和に関する布告」とは、第一次世界大戦の交戦国に①無賠償・無併合に基づく即時講和と②民族自決の原則を訴えたものだ。戦争に勝ったからといって負けた国から領土を奪ったり賠償金を求めたりできないとしたら、戦争を抑止する効果は高いだろうし、民族自決原則が押し広げられて他民族による支配がなくなるとすれば、民族の独立を求める紛争をなくすことにつながるとも言えるだろう。だから「平和に関する布告」は全世界的に「社会主義革命を実現したロシアは今までにないすばらしい原則を打ち出した」という印象を与えるのに、極めて大きな役割を果たした。

 「土地に関する布告」は土地の私有権を廃止するというものだ。広大な土地を持つ地主の土地を無償で取り上げ、小農に分け与えるという政策だと理解してもよい。

 但し、美しい理想をそのまま現実に放り込むような布告を行ったのは、彼らがそのような美しい理想をそのまま実現できると考えたからだと思うとしたら、それはナイーブすぎる。首都ペトログラードをクーデター的に制圧したといっても、ボルシェビキによるロシア全土の制圧にはまだまだ程遠かった。ボルシェビキが支配していない地域においてもボルシェビキを受け入れやすい環境を作り出す必要があったのだ。

 「平和に関する布告」について言えば、「無賠償・無併合に基づく即時講和」はドイツに敗北しつつあったロシアの側に極めて有利な主張だとも言えたし、この美しい理念に敵対する諸外国(特にドイツ)も応じてくれれば、若い働き手を軍隊に取られている農民たちには朗報だ。敵対する諸外国がホイホイと応じてくれる見通しは実際には全くなかったのだが、それでも平和に向かって最大限に努力している姿勢を国民に植え付けることはできただろう。「民族自決の原則」を革命後のロシアが守ったかと言えば、そんなことは全くなかった。多民族国家であるロシアが民族自決を実践するなら、国家を何十にも分裂させなければならなかったはずだ。「土地に関する布告」も富農や地主は怒り心頭だったとしても、圧倒的多数の貧農たちには大歓迎だったろう。

 また、彼らは弱小ロシア1国だけで社会主義が成立するほど、世の中は甘くないとも思っていた。このような美しい理想を高々と宣言することによって、第一次世界大戦で疲弊している他の国々においても社会主義政権ができることを期待していたのだ。実際ドイツやオーストリアにおいてはロシア革命に影響された大規模なストライキが勃発するなど、社会主義へ向かう流れが動き始めていた。

 ボルシェビキの本質が平和と民主主義にはないというのは、10月革命の後に実施された憲法制定議会選挙の結果の受け入れ態度に明瞭に示された。20歳以上の全国民が平等の投票権を持つ憲法制定議会選挙を行うことを、ロマノフ王朝の時代にも、ロマノフ朝が倒れた後にできたケレンスキーによる臨時政府の時代にも、レーニンは一貫して求めてきた。ロマノフ朝もケレンスキー政権も民主主義に背くひどい政権だと攻撃することで、自分たちこそ真に民主主義の側に立つ勢力なのだと印象づけることを戦略としてきたからだ。

 だから10月革命を達成した直後に憲法制定議会選挙の実施が決まったのは、極めて自然な流れであったろう。ロシア史上初めての公正な普通選挙という点でも画期的だったろう。新生ロシアは違うという印象を世界にアピールするのにも大いに役立った。だが、レーニンはこれが本当に実施されたらボルシェビキが勝てないことを理解していたから、ボルシェビキ内部の会議においては憲法制定議会選挙の延期の提案を密かに行っていた。これに対して他のメンバーからは全く賛同が得られず、結局そのまま実施されることになったというのが実際のいきさつだ。

 そして実際この選挙においては、案の定ボルシェビキは苦戦を強いられた。ボルシェビキとは違った路線で社会主義を目指す運動を展開してきたエスエル(社会革命党)が得票率の40%を占めてトップに立ち、ボルシェビキは得票率24%で第2党になってしまった。レーニンからすれば「それ見たことか!」ってことにもなるのだろうが、他のメンバーにはここまでひどい結果になるとは想像がつかなかったようだ。いずれにせよ、このまま憲法制定議会を開いたとしても、自分たちがリーダーシップを取れる社会主義への道は阻まれることになってしまう。そこでレーニンはボルシェビキの会議で議会を解散させることを提案し、これに対して他のメンバーからは反論も一切出ずに同意をえた。そして議会は開会してたった1日でレーニンにより解散させられた。議会に軍隊を送って、議員たちが登院できないようにしたのだ。つまり、彼らは軍事力を背景にして平和的な民主主義を否定したのだ。

 ここで忘れてはならない点がある。彼らには議会制民主主義というのはブルジョア的な(金持ちに有利な)性格を持った不完全なものであって、本当の民主主義ではないとの考えがあった。自分たちは誰よりもあるべき社会についてしっかり考えているのだから、自分たちの考え通りに社会が進むことこそが最も民衆のためになるという意味合いで「真の民主主義」に立っているという信念を持っていたのだ。

 わかりにくいかもしれないので、もう少し説明をしておこう。一般に私たちが認識している民主主義というのは、公正な選挙を行った上での選挙結果には従わなければならないとか、議会では多数派の意見が通るとしても、話し合いを通じて少数派の意見も取り入れた修正を行って決めていくべきだという政治プロセスの話としてイメージされることが多いだろう。しかしながら彼らは、そうした形式によって実質的に民衆を豊かにする政策が実施されるとは必ずしも言えないと考える。なぜならブルジョアジー(金持ち)はカネにモノを言わせて自分たちに有利になるように宣伝をしたり政治家に働きかけたりすることができるから、実現される政治はどうしてもブルジョアジーに有利なものになってしまうと見るのだ。そしてそうした環境のもとで選挙を行って多数派になった奴らが国民全体の利益を代表しているとみなすのは果たして正当なのか?というわけだ。だから、真の民主主義というのは、どういう政策が人々のためなのかを考え抜いている人間が担う政治のことだということになる。つまり、共産主義(マルクス主義)という理想社会を作るための「科学」的な理論をしっかりと勉強して身につけている自分たちが正しいと考えている政治こそ、真に民主的なものなのだということになる。第一党になったエスエル(社会革命党)は確かに同じ社会主義を目指す政党ではあるが、「科学」的なマルクス主義にもとづいているわけではないから、奴らの理論には限界がある。だから、真の民主主義を実現するためには奴らに国家権力を担わせるべきではないというわけだ。随分とおこがましい考えだということが理解できると思うが、この点を理解できると北朝鮮が「朝鮮民主主義人民共和国」という「民主主義」を冠した名前を名乗る理由も理解できるだろう。首領様を中心とする労働党こそが人民全体の利益を真に考えることができるのだというのが、「民主主義」を名乗る根拠なのだ。

 だから、普通選挙で選ばれたばかりの憲法制定議会を解散することにレーニン以外のボルシェビキの幹部たちが反論せずに賛同したのは、彼らのモノの見方からすればある意味では当然のことだったともいえる。ボルシェビキの連中には政治プロセスとしての民主主義は半ばどうでもいいものだったのだ。

 ただ、ボルシェビキの名誉のために言っておくが、彼らは現実には一般庶民の利益を実現する政治はほとんどできなかったけれども、自分たちが一般庶民の利益を実現するという意味での真に民主的な政治を行うにふさわしい存在なのだと純粋に考えていたのだ。自分たち個人の利益を最優先する政治を実現するためだけに「民主主義」を単なる建前として掲げたわけではない。少なくとも当初はそうだった。

 当時ボルシェビキの中で中心的な役割を演じていた人たちは、一般に恵まれた環境で育った人たちが多い。つまり、従来の体制の中でも恵まれた立場につける位置にいた人たちが多いのだ。それでも彼らは貧しい人たちに心を痛め、彼らを何とか助け出せないものかという願いを持っていた。そんな彼らに応える理論がマルクス主義であり、彼らは夢中になってマルクス主義を身につけたのだ。

 一例としてレーニンを取り上げよう。レーニンの家系はなかなか複雑で、父方はモンゴルやトゥルクの血も流れ、母親はスウェーデン系の血を引いていて、純粋なロシア人というのとは随分違った。解放農奴あがりの家系でもあったのだが、レーニンの父親は個人の才覚で高名な物理学者となり、人々から敬愛される教育者ともなり、地元の名士だった。そしてそんなレーニンの父親の業績をロシア政府は認め、レーニンの父親を貴族に列しているのだ。つまり、レーニンは貴族の子供であり、彼も貴族の一員だった。

 人々への慈愛に溢れたレーニンの父親は少数民族の問題とか貧困の問題とかを自分の子供たちに説いて聞かせていた。そのせいもあって、レーニンの兄弟姉妹はみな革命家になっている。レーニンの兄はロシア皇帝アレクサンドル3世の暗殺計画に加わったことで絞首刑に処せられているし、同じ容疑が姉にも掛けられ、姉も追放処分を受けている。レーニンも学生時代に暴動を起こして警察に逮捕され、大学を退学させられたりしている。そんな中でマルクス主義に傾倒したレーニンは、どうすればこのロシアのひどい格差をなくすことができるのかについて真面目に考え抜き、それを実践しようとしたのだ。

 彼らが実際に引き起こした悲劇を前に、彼らの良心を疑う気持ちはわからないではない。だが、彼らの良心が本物ではなかったから社会主義革命はうまくいかなかったのだと結論付けると、では彼らの良心が本物でありさえすればすばらしい社会主義が実現できたかのように映ってしまう。私たちは彼らが良心に基いて行動したのに、なぜ現実はそれと真逆とも言える動きになったのかをよくよく考察すべきではないだろうか。自分たちの意図がよいものであれ悪いものであれ、それを社会に押し付けようとする時に生まれる反作用の大きさを、私たちは歴史の教訓として学ばなければならないのではないかと思うのだ。

 そしてその観点から、ボルシェビキがブルジョア民主主義だとバカにした政治プロセスとしての議会制民主主義というものが、欺瞞にしか見えないことがたびたびあるとしても、実は絶対に手放してはならないものだということを、私たちは見失ってはいけないのだと思う。

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