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第一次世界大戦後の思想状況



 今「社会主義」とか「マルクス主義」という言葉を聞いて、心ときめくという人は殆どいないと言ってよいだろうが、戦前においては今とは全く違っていた。第一次世界大戦の結果としてソビエト・ロシアが誕生したのはよく知られているが、社会主義が広がったのは決してロシアだけではなかった。第一次世界大戦後にはドイツにおいても帝政が崩壊し、社会民主党を中心とした連立内閣が成立した。社会民主党は穏健ではあるが、マルクス主義者の参加も多かったドイツ社会主義労働者党に起源を持つ社会主義政党で、マルクス主義に基づく党綱領(エルフルト綱領)を採択したこともあった政党だ。しかも、第一次世界大戦を迎える前の1912年の段階ですら帝国議会選挙ですでに得票率34.8%を獲得していて、議会内では第一党となっていた。こうした背景があったので、ドイツで帝政が崩壊した時に成立した政権が社会民主党を中心とした連立内閣となったわけだ。

 1929年のウォール街の大暴落があるまで、アメリカはバブル的な繁栄を単純に謳歌していたわけではない。確かに1920年代のアメリカは電気の敷設が急激に広がり、自動車が急激に普及し、生活様式が急激に変化していた。人々はトースターで焼いたパンを楽しむようになり、電気冷蔵庫や電気掃除機が徐々に普及し、ラジオから流れる情報によって最新ニュースを知るようになり、それによってプロスポーツが花開くようになった。1920年代と言うと、こうした明るい生活革新のイメージで捉えられることが多いし、それが株式市場において将来への楽観的な見通しを押し広げ、バブル的な株価の上昇をもたらしたのも確かである。だが1920年代は実はアメリカ史においてもっともストライキが頻発した時代でもあり、しかもそのストライキは産業の国有化を求めるものが中心だったという一面も持つ。つまり、第一次世界大戦後はアメリカにおいても社会主義を求める過激な勢力が急激に広がっていたとも言えるのだ。スペインは第一次世界大戦の時にアルフォンソ13世の王政だったが、その後の社会主義運動の高揚の中で王政打倒を目指す動きが強まり、1931年に左翼色の強い共和政が誕生した。フランスでも共産党が政権内部に入る人民戦線内閣が1936年に誕生している。

 社会主義やマルクス主義は日本においても当時は急激に広がった思想であった。というよりも、社会主義やマルクス主義がソビエト・ロシア以外で最も花開いたのが日本だったと言ってもよいくらいだった。当時マルクス主義関連の著作が世界中で最も多く出版されたのは日本だったと言われている。1928年には「マルクス・エンゲルス全集」が日本国内で刊行されて、まさに飛ぶように売れた。累計では12万巻ほど出たそうだ。当時の1学年あたりの大学生数は1万人〜2万人程度で、大学生でもマルクス・エンゲルス全集を買うような人が普通にいた時代なのだ。全集以外でもマルクス・エンゲルスの著作は岩波文庫などによって数多く出版され、発売禁止になった1937年までは普通に入手できた。大学生がインテリだと考えられた時代に、マルクス主義を知らなければインテリとは言えないとみなされたのが当時の状況だった。発禁となった1937年以降も古書店ではこっそりと売られていたし、その後も地下出版は続いていた。強い需要があって口コミネットワークを通じてすぐに完売したし、違反を摘発されてもわずかな罰金を払えば許され、商業的には十分に利益が出たのだ。

 当時の社会主義・共産主義ブームを竹山道雄は「インテリの間には左翼思想が風靡して、昭和の初めは〈アカにあらずんば人にあらず〉という風であった」(「昭和の精神史」より引用)と書いている。清水幾太郎は「どうしてあなたは共産主義者になったのか」と問われて、「昭和初年の1926~1927年ですら、神田の本屋街で、平積みの新刊本は皆マルクスとレーニンばかり。そんな環境で、読書好きな優秀な学生が、どうやって共産主義者にならない事が可能ですか」と答えている。杉森久英は「私の学生時代は昭和初年で、思想界はマルクス主義一色に塗りつぶされていた」(「大政翼賛会前夜」より引用)と書いている。与謝野晶子は「マルクシズムよりレエニズムへと言うのが、優秀な大学生間の近頃の研究題目であり…それを人生の唯一の準拠と万事を批判し照準する傾向が著しい」と嘆いている。こうした中でマルクス主義に傾倒した若者たちを表す「マルクスボーイ」「エンゲルスガール」という言葉も生まれた。

 戦前は治安維持法のもとで学問の自由も思想の自由も出版の自由もまるでなかったと思いこんでいて、社会主義・共産主義の勉強など許されなかったのだろうと思い込んでいた人も多いと思うが、このように事実は随分と違っている。マルクス主義は学問として学ぶことができたどころか、文系では学問の主流派として君臨していたと言ってもよいくらいだ。政治勢力としての共産党や共産主義運動は弾圧されていたが、マルクス主義思想は今とは比較にならないくらいに広がっていた。特高警察が目を光らせていたために、表面的にはマルクス主義ではないように装いながらも、本音としてはマルクス主義に染まっていた人たちも非常に多かったのだ。

 当時は現代とは比較にならないくらいに貧困が大きな問題となっていた。資本主義の勃興期であり、工場労働者の待遇は極めて劣悪だったし、今では人身売買として許されていない娘の身売りといったことも、当時の世の中では起こっていた。こうした問題に心を痛めていた良心的な人はたくさんいたが、こうした問題の解決を目指す理論はマルクス主義くらいしかなかったのが実際だ。しかも単なる空論ではなく、実際にソビエト・ロシアという社会主義国が誕生したことによって、社会主義を実現してこの世の楽園を作り出すことができるという期待が大きく膨らんだ。だから良心的な人はこぞってマルクス主義に傾倒していった。絶対的な貧困を救うために社会主義に向かわなければならないとか社会主義への流れは歴史の必然で揺るぎないものだと考える人が、当時は日本にも世界にも非常に多くいたのだ。

 さらに、1929年にウォール街の大暴落をきっかけとして始まった世界大恐慌は資本主義の終わりを告げているかのように当時の人々の目に映った。アメリカにおいては失業率は25%ほどに達したし、ヒトラーが台頭した頃のドイツでは40%を超えていた。4人に1人が職がないとか5人に2人が職がないというのは、どれほど社会を不安定にするものなのか、考えてもらいたい。職を得ている者でもいつその地位を脅かされるかわからない恐怖におののき、経営者側がどんな無茶な要求をしてきてもおとなしく呑まざるをえないような状況となる。失業保険制度が未発達な中では、失業に対する恐怖は今日とは比べ物にならなかっただろう。その一方で、スターリンの指導のもとでソビエト・ロシアが世界恐慌の影響を受けずに高成長し、人類の理想に向かって前進しているとの宣伝がなされていた。こうした世界状況も社会主義の必然性を人々に感じさせていた。イギリスの劇作家として名高いバーナード・ショウはソ連を訪問した際に以下の有名なセリフを残している。「資本主義国家が崩壊を免れたければ、ソ連の方法を取り入れるべきである。以前、私がそう警告したことは正しかった。ソ連では希望こそ思想の中心である。階級が無く、淑女や紳士がおらず、誰もが友人であるような国にいるということ、それは稀に見るすがすがしい経験だった。明日、私はこの希望の土地を去り、我々の絶望の国へ帰る。」当然ながら、スターリンが見せたいようにアレンジしたものしかバーナード・ショウは見ないまま、コロッと騙されたわけである。そしてこうしたバーナード・ショウらの発言にまたコロッと騙された人たちも多かったわけだ。

 こうした時代状況の中で、政治家であれ、官僚であれ、ジャーナリストであれ、芸能人であれ、軍人であれ、マルクス主義・社会主義に共感したり、期待したり、その必然は避けられないと考えたりした人たちは山のようにいた。そしてそういう人たちの間では、レーニンの敗戦革命論に基づき、第一次世界大戦では成し遂げきれなかった全世界の共産化を次の世界大戦でこそ実現させたいという思いがあったことは想像に難くないだろう。

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