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スパイ尾崎秀実



 戦前の有名なスパイ事件にゾルゲ事件というものがある。ゾルゲはソビエト・ロシアのスパイのドイツ人だった。ナチス・ドイツの党員でもあり、ドイツの有力新聞である『フランクフルター・ツァイトゥング』の東京特派員でもあった。大変な日本通で、日本の伝統や文化の造詣も深く、日本の様々な問題についても洞察に富んだ評論を日本語でも数多く発表し、当代きっての日本通の外国人として知られていた。駐日ドイツ特命全権大使のオイゲン・オットの信頼を勝ち取り、大使の私的顧問ともなっており、ドイツの最高レベルの立場でしかわかりえない情報にもアクセスしやすい立場にいた。

 このゾルゲと通じてゾルゲ同様にソビエト・ロシアのスパイ活動を行っていたのが尾崎秀実(おざきほつみ)である。尾崎は朝日新聞の有名記者で、中国に5年にわたって滞在したことがあり、著名な中国専門家としてその名を知られていた。尾崎秀実は単なる朝日新聞の一記者であるにとどまらず、首相となった近衛文麿の側近となるなど、政治的にも重要なポストを占めていた。「昭和研究会」というのは近衛文麿のブレーンの集まりのことだが、尾崎はこの昭和研究会の中心メンバーであり、近衛の政策立案に重要な役割を果たした。既成政党を廃して大政翼賛会を作ろうとか東亜新秩序の確立を目指そうというのは、この昭和研究会の提言によるものだ。いかに政治的に大きな影響力を昭和研究会が持っていたかがわかるだろう。

 尾崎秀実は逮捕されてからの取り調べの尋問調書で、自分たちの狙いについても答えている。その部分を引用してみよう。(古風な漢字の使い方をしているところを、現代人に読みやすいようにひらがなに置き換えた点、句読点を追加した点を注記しておく。)

 私は欧州情勢や支那をめぐる帝国主義諸国家の角逐等、国際情勢から、一九三五年(昭和十年)頃から第二次世界大戦はまさに近しとの見通しをつけており、その後支那事変の勃発によってこれを断定いたしました。そうして第一次世界大戦がソ連を産んだ如く、第二次世界大戦はその戦争に敗れ或いは疲弊した側から始めて多くの社会主義国家を生み、世界革命を成就するに至るものと思っておりました。
 そうして私はこの関係を経過的に、すなわち
(一)ソ連はあくまで平和政策をもってこの帝国主義諸国の抗争の外に立つべきであり、またそうするのであろう。
(二)日独伊対英米の抗争(帝国主義の変形国家と本来的帝国主義国家との抗争)は深刻な持久戦となるであろうが、その結果は共倒れとなるか、いずれかの勝利に一応は帰するであろうが、後者の場合はその敗れた側に社会革命が起こるであろう。
(三)勝ち残った国家においても充分に疲弊しており、かつソ連の比重の相対的な増大、強大国家の社会主義への転換を余儀なくされる可能性が高いというように観測しておりました。

 この尾崎の考え方はレーニンの敗戦革命論に基づくものであることは言うまでもない。尾崎はソビエト・ロシアが戦禍に巻き込まれて疲弊することをできる限り避けつつ(「ソ連はあくまで平和政策をもってこの帝国主義諸国の抗争の外に立つ」の意味)、資本主義国同士を互いに戦わせるように仕向け(「日独伊対英米の抗争」の意味)、ボロボロになったところで革命を引き起こす(「敗れた側に社会革命が起こる」「勝ち残った国家においても充分に疲弊しており、強大国家の社会主義への転換を余儀なくされる可能性が高い」の意味)ことで世界全体を社会主義へと向かわせることを狙っていたわけである。

 尾崎がこのようにその狙いをはっきりと語っていることに驚きを持つ方もいるであろうが、当時の時代背景を考えるとそう驚くべきことではないだろう。当時はマルクス・レーニン主義が学術界を席巻していた時代であり、レーニンの敗戦革命論にしても知的レベルの高い人たちの間では普通に共有されている知識であったからだ。尾崎が今さらごまかして隠し通すことなどできない話だったとも言えるのだ。

 尾崎は昭和研究会を通じて、また近衛との私的な関係の深さから、敗戦革命論に沿った戦略に基づいて、日本の政策を動かそうとしていた。そして実際に日本の政治に与えた影響は甚大であった。そのことの重みを私たちは無視してはならないと思う。

 尾崎は次のようにも述べている。「私の立場から言えば、日本なり、ドイツなりが簡単に崩れ去って英米の全勝に終わるのでは甚だ好ましくないのであります。(中略)この意味において、日本は戦争の始めから、米英に抑圧さられつつある南方諸民族の解放をスローガンとして進むことは大いに意味があると考えたのでありまして、私は従来とても南方民族の自己解放を『東亜新秩序』創建の絶対要件であるということをしきりに主張しておりましたのはかかる含みをこめてのことであります。」

 尾崎は、日本が英米に単純に負けるだけでは不十分で、英米に抑圧されている南方諸民族の解放を掲げて日本が南方に進軍した後に敗北することが好ましいと考えていた。これは南方の英米などの植民地となっているところでそれらの軍隊に対して日本が大打撃を与えた後に日本が敗北すれば、日本のみならず南方地域でも共産主義革命が実現する可能性が広がるということを狙っていたというわけだ。

 日本は第二次上海事変が起こる前に日中戦の泥沼化を避けたいと船津和平工作を展開していた。この和平工作においては、日本は盧溝橋事件以降に日本が平定した北支(北京、天津地域)をそのまま国民党政権に返すなど、寛大すぎるともいえる譲歩を日本は行おうとしていた。日本は中華民国との消耗戦からどうしても離脱したかったからだ。だが、国共合作が行われていた国民党には共産主義勢力が深く浸透していて、その工作によって大山大尉虐殺事件が引き起こされ、続いて第二次上海事変が起こされたことで、この和平交渉は暗礁に乗り上げた。それでも日本は国民党との和平を諦めず、第二次上海事変勃発後から南京平定後まで、駐中国ドイツ大使のトラウトマンを通じて国民党との和平交渉(トラウトマン和平工作)も進めていた。中華民国との消耗戦から離脱しようと、日本は努力していたのだ。だがこうした国民党との和平を進めようとする動きに対抗するかのように、尾崎は日本の軍事力をできる限り消耗させるために泥沼の戦争に日本軍を引きずり込むことを画策していたと言わざるをえない。例えば尾崎は昭和13年(1938年)の「中央公論」6月号に「もはや中途半端な解決法というものが断じて許されないのであって、唯一の道は支那に勝つという以外には無い」とし、国民党と和解して中華民国からの撤兵を企図する動きを牽制しながら、漢口攻略にさらに手を伸ばすことを進言している。同年の「大陸」10月号においては「漢口攻略によって日支抗戦の支那側の抗戦態様に質的転換を強いるという事実以外に、日本の側から見て漢口を頂点とする画然たる一つの体制-体系を一応完成せしめるということに於て従来の場合と違った意味を見出す」とし、漢口攻略の完遂を求めている。中国との泥沼の戦いに引きずり込むことで日本の軍事力をソ連に向かわせないようにしながら、消耗させることを尾崎が目的としていたのは、今となっては明らかだ。

 尾崎はスパイ活動に身を投じていたために、特高に捕まることとなった。だが、尾崎のような考え方を持つ人たちは当時の時代状況的には、日本でも世界でも例外とは言えなかった。スパイ活動などに関わりを一切持たなくても、マルクス・レーニン主義に共鳴していた人たちは普通にたくさん存在した。つまり敗戦革命論を信じ、自国を敗戦に追い込むことによって共産主義革命を実現すれば、自分たちは真に豊かになれると信じていた人たちが、政治家の中にも官僚の中にも軍人の中にもマスコミの中にも当たり前のようにいたのだ。

 しかもこれは決して日本だけの話ではない。資本主義の総本山的なアメリカにおいても同じような現実があり、日米戦争を引き起こそうと画策していた人たちがたくさんいた。その中で日米戦争が勃発することになった。私たちは日米戦争がどうして起こったのかについて、今までの思い込みを排して冷静に事実を見ていくべきであろう。

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