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近衛文麿と昭和研究会



 尾崎秀実はレーニンの敗戦革命論に基づいた戦略に日本を誘導するのに大きな役割を果たしたわけだが、この尾崎を政策ブレインとして重用したのが近衛文麿だ。近衛文麿は後陽成天皇の流れをくむ、つまり皇室とも近い関係にある近衛家の当主である。

 ところで近衛文麿は尾崎の素性に気づかぬまま、中国専門家として尾崎をたまたま重用したのだろうか。どうもそうではないようだ。

 近衛は東京帝国大学の哲学科に一旦進学したが、高名なマルクス経済学者として知られていた河上肇京都帝国大学教授に憧れていて、東大を中退して京大に鞍替えしている。これはロシア革命よりも随分と前の1913年のことで、すでにこの時期には共産主義思想がある程度の社会的影響力を日本においても持ちえていたことを示している。ちなみに河上肇が京都帝大の経済学部長になったのは1920年のことであり、戦前の大学にも共産主義を排除する雰囲気は全くと言っていいほどなかったことがここからもわかるだろう。実際に近衛は京大で河上教授の薫陶を受けたばかりか、河上教授の自宅にも頻繁に訪れ、共産主義に関する本を河上教授からプレゼントされている。近衛はオスカー・ワイルドの書いた「社会主義下の人間の魂」の翻訳を行い、「社会主義論」という表題で雑誌「新思潮」に発表している。こうした来歴を見て行けば、近衛文麿に共産主義的な傾向があったとしても、何ら驚くことではないだろう。そしてそうであるからこそ、近衛は尾崎と波長が合い、尾崎を自らのブレインに据えたと考えた方が辻褄が合う。

 昭和研究会には例えば風見章という人物もいた。風見は信濃毎日新聞の主筆をつとめた後、衆議院議員にもなった人物だ。信濃毎日には「マルクスに付いて」との12回にわたる連載記事を書いていたこともある。そのうち6回はマルクスとエンゲルスの共著である「共産党宣言」についての紹介だった。風見はこの中で「この宣言書は実に重大なる意義を歴史的に持つものである。その重要さはどんな言葉を用いても誇大とはならぬほどのものである。それは実にヨーロッパ社会史、といわんよりも世界社会史、人類社会史上に新しい出発点を与えたものであった。労働者たちをして、最初にまず彼らの持つ所の歴史的使命と、その尊厳さとを、感得せしめたのは、実にこの宣言だったのである」と、共産党宣言に最大級の賛辞を送っている。

 風見章は日記を残しており、この日記は2008年になって出版された。この中で風見は以下のように書いている。

 わたしは、近衛氏と、ふたりきりになったおり、時局のみとおしを語りあったが、近衛氏も日華事変がのんべんだらりとひきのばされてゆけば、厭戦気分の爆発から、革命は必至の勢いであることを認めていた。そして、そうなると、皇室の運命はどうなるだろうかと心配げにいいだしたので、わたしが、徳富蘆花の『みみずのたはこと』に出てくるひとくさりを例にあげて、国民の皇室に対する関心はみかけほどのものではなかろうと指摘し、したがっていざ革命ともなれば、皇室の運命はどうなるか、わかったものではないとこたえると、近衛氏は『ツァーの二の舞ではこまるなあ』と顔をくもらした。それからしばし沈思黙考の態であったが、やがていとも沈痛な口調で、ひとりごとのように、『ぼくとしては、どうなろうとも、皇室と運命をともにしなければならない』と、もらしていた。

 風見も近衛もともにマルクス主義をよく理解する者であり、レーニンの敗戦革命論も十分に理解していた。そしてこの戦争によって国家が疲弊すれば、この日本においても革命が起きる可能性が高いことを二人とも充分に認識していたことが、この二人のやりとりからわかる。革命の結果として、ロシアのツアー(皇帝)のように皇室が処刑されるようなことがあれば、皇室と近い関係にある自分としては困ることになると近衛が語っているのに対して、風見は革命後の皇室の命運には大した関心を寄せてはおらず、革命は起こってもいいものとして考えていることが伺える。つまり風見は事実上共産主義者だと看做して構わないような人物だった。

 だがより注目したいのは、風見が敗戦革命が起こってもいいんじゃないかという感じのことを語りかけている相手が総理を務めたこともある近衛文麿であり、しかも近衛もこんなことを口にする風見を全く咎めていないという点だ。もちろん、近衛はそうなっては困ると言っているわけだから、近衛文麿自身が共産主義者になりきっていたわけではない。それでも近衛は京都大学でマルクス主義を真剣に学び、河上肇教授と個人的にも深い付き合いをするくらいに共産主義への理解は持っていた。近衛には当時の資本主義が生み出す弱者に対する過酷な現実に対するネガティブな思いがあり、それを解決しようとする共産主義に心惹かれていたところは間違いなくあったのだろう。それは当時の知識人としてはごく普通のことでもあった。だから、共産主義に近づくように現実の政治を動かしていくことにもそれでよいと思っていたのではないかとも思う。共産主義を信じている友人たちには正義感に溢れた善人が多く、彼らとの友情も近衛には大切なものであったろう。

 なお、風見は戦後の昭和26年に雑誌「改造」に「尾崎秀実評伝ー殉教者への挽歌」という記事を載せている。その中で風見は「尾崎秀実とゾルゲは国家による虐殺行為で殺された」「わが尾崎が、絞首台に運べる足音は、天皇制政権に向かって、弔いの鐘の響きであり、同時に、新しい時代へと、この民族を導くべき進軍ラッパではなかったか、どうか。解答は急がずともよかろう。歴史がまもなく、正しい判決を下してくれるにちがいない」と述べ、マルクス主義の殉教者として尾崎を高く評価している。

 風見は第一次近衛内閣で内閣書記官長(現在の内閣官房長官に相当する役職)に就任している。これを新聞は一様に「野人政治家の大抜擢」という感じで好意的に取り上げた。過去の論説から見て風見には国家を滅亡に導く危険な共産主義者の可能性はないかという疑義を、マスコミ側から掛けられたりすることはなかった。当時のマスコミには今以上にマルクス主義にシンパシーを持つ人たちが多くいて、自分たちと思想傾向の似ている風見の抜擢をむしろ歓迎していたのだろう。

 不可侵条約を結んでいたはずのドイツとソビエトロシアが戦争状態に突入した時に、日本国内ではドイツを助けてロシア攻撃に参加すべきだとする北進論と、独ソ戦は静観して南部の資源を確保を目指してベトナムやカンボジアの方に進むべきだとする南進論とが対立した。この時の日本の内閣は第二次近衛文麿内閣であり、司法大臣(現在の法務大臣)は風見章である。ソビエトロシアを防衛するためには北進論は絶対に退けなければならないという使命感から、尾崎や風見は当然ながら南進論を主張した。ソビエトロシアを大切に思っている共産主義者やそのシンパなら当然南進論を主張した。その結果、近衛内閣としても南進論を採用することになり、ソビエトロシアは助かったのだ。

 尾崎や風見の考えやその考えの影響を強く受けた近衛の判断は、少なくとも今日の基準から見ればとんでもないものだったことは疑いようがないし、こうした面々が政権中枢にまで及んでいて日本の政策を実際に決定していたことには、現代にいる私たちは驚きを禁じえないだろうが、マルクス・レーニン主義が席巻していた当時の思想状況からすれば、彼らだけがことさら特殊だったわけでもないように私には感じられる。

 レーニンの敗戦革命論を信じ、資本主義国家を互いに戦争させることによって世界革命を実現でき、それによって人類は本当に幸せになれると考えた人たちが、官僚にも政治家にも軍部にもマスコミにも数多く存在したことを見失うべきではない。そうした人たちが組織的な計画に基いて動いたとまでは言えないが、その方向に歴史を動かそうとそれぞれの立場で動いたことが、結果的にあの悲惨な戦争につながったと見る方が、歴史的には正しいのではないかと思われるのだ。

 なお、近衛については少し弁明をしておきたい。近衛は敗戦が確実視されるようになった昭和20年の2月に、共産主義との決別を示すような「近衛上奏文」を天皇陛下に提出しているのだ。現代人の私たちにはわかりにくいので、その本文部分を現代語に翻訳してここに掲載しておく。かなり長いのだが、ぜひともお付き合い願いたい。

 敗戦は残念ながら、最早必至であると考えます。以下この前提の下に申し述べます。敗戦は我が国の国体を傷つける可能性はあるものの、イギリスやアメリカの世論は今日までのところ、我が国の国体の変革を求めるところまでは進んではおりません(もちろん一部には過激論もあり、また将来どのように変化するかは予測しにくいです)。従って、敗戦だけならば、国体上はそうまで危惧する必要はないと考えます。国体護持という建前よりも最も危惧すべきことは、敗戦そのものではなく、敗戦に伴って起こる可能性のある共産主義革命のことであります。
 よくよく考えてみると、我が国の内外の情勢は、今や共産主義革命に向かって、急速に進行しつつあると考えています。即ち国外においてはソ連の異常な進出です。我が国民はソ連の意図を的確に把握しておりません。あの1935年の人民戦線戦術、即ち二段階革命戦術を採用して以来、ことに最近「コミンテルン」を解散して以来、赤化の危険を軽視する傾向が顕著ですが、これは皮層で安易な見方であると思います。ソ連が究極において世界の赤化政策を捨てていないのは、最近のヨーロッパ諸国に対する露骨な策動により明瞭となりつつある次第です。
 ソ連はヨーロッパにおいて、その周辺諸国にはソ連的政権を樹立しようとし、それ以外の諸国には少なくとも親ソ容共政権を樹立しようとして、着々とその工作を進め、現に大部分成功を見つつある現状であります。
 ユーゴスラビアのチトー政権誕生は、最も典型的で具体的な表れであります。ポーランドに対しては、あらかじめソ連内に準備していたポーランド出国者連盟を中心に新政権を樹立し、在イギリス亡命政権を相手にしないと押し切りました。ルーマニア、ブルガリア、フィンランドに対する休戦条件を見ると、内政不干渉の原則に立ちつつも、ヒトラー支持団体の解散を要求し、実際上ソ連的政権でなければ存在しえないかのようになっています。
 イランに対しては、石油利権の要求に応じないからと、内閣総辞職を要求しました。スイスがソ連との国交開始を提議したことに対して、ソ連はスイス政府に対して親ドイツ的であるからと一蹴し、このために外務大臣は余儀なく辞職となりました。
 英米に占領されているフランス、ベルギー、オランダにおいては、対ドイツ戦に利用した(親ソ的な)武装蜂起団と(親英米的な)政府との間で深刻なる闘争が続けられ、かつこれらの諸国はいずれも政治的危機に見舞われつつあります。そうしてこれらの武装団を指揮しているのは、主として共産系なのであります。ドイツに対してはポーランドにおいてと同じく既に準備された(親ソ派の)自由ドイツ委員会を中心に新政権を樹立せんとする意図があるようで、これは英米にとり、今日の頭痛の種となっていると思われます。
 ソ連はこのようにヨーロッパ諸国に対し表面上は内政不干渉の立場を取っていますが、実際においては、極度の内政干渉を行い、国内政治を親ソ的方向に引きずりこもうとしています。
 ソ連のこの意図は、東アジアに対してもまた同様で、現に(中国共産党の本拠地である)延安にはモスクワから来た野坂参三を中心に日本解放連盟が組織され、朝鮮独立同盟、朝鮮義勇団、台湾先鋒隊などと連絡し、日本に(共産化を進めようと)呼びかけていました。
 このような形勢から推測すると、ソ連はやがて日本の内政に干渉してくる危険性が十分にあると考えられます。(即ち共産党が公認した(フランスに成立した)ド・ゴール政府、(イタリアに成立した)パドリオ政府に要求したように、共産主義者の入閣、治安維持法及び防共協定の廃止などです。)
 翻って国内を見ると、共産主義革命達成のためのあらゆる条件が日々具備されていく様子が見られています。即ち生活の窮乏、労働者の発言度合いの増大、英米に対する敵愾心昂揚の反面たる親ソ的な気分、軍部内一部にある革新運動(社会を根底から変革しようという運動)、これに便乗するいわゆる新官僚の運動、さらにこれを背後より操りつつある左翼分子の暗躍などであります。これらのうち、特に憂慮すべきは軍部内一味の革新運動であります。
 若手の軍人の多数が我が国体と共産主義は両立するものであると信じているように、軍部内革新論の基調もまた同様だと思われます。職業軍人の大部分は中流以下の家庭の出身者であり、その多くは共産主義的主張を受け入れやすい境遇にあります。また彼らは軍隊教育において国体観念だけは徹底的に叩き込まれているために、共産分子は国体と共産主義の両立論を使って、彼らを引きずり込もうとしつつあります。
 そもそも満州事変を起こし、さらに支那事変を起こし、これを拡大して、遂に大東亜戦争にまで導いてきたことは、軍部内の意識的計画であったことは、今や明瞭であると思われます。満州事変の当時に彼等が事変の目的は国内革新にあるのだと公言したのは、有名なる事実でございます。支那事変当時も「事変は長引くのがよく、事変が解決してしまったら国内革新ができなくなる」と公言したのは、この一味の中心人物でありました。
 これら軍部内部の革新論者の狙いは、必ずしも共産主義革命でないとしても、これを取り巻く一部官僚および民間有志(これを右翼ということもできますし、左翼といういうこともできます。いわゆる右翼は国体の仮面をかぶった共産主義者です)は、意識的に共産主義革命まで引きずろうという意図を包蔵しています。無知で単純な軍人たちがこれらの人達に踊らされていると見て、大きな間違いはないと思います。このことは過去十年間、軍部、官僚、右翼、左翼の多方面にわたって交遊をしていた私が、最近静かに反省して到達した結論であります。この結論を鏡にして過去十年間の動きを照らして見た時、そこに思い当たる節々がものすごく多いと感じるのであります。私はこの間、二度も内閣総理大臣になれとの大命を拝しましたが、国内の対立や摩擦を避けようとして、できるだけこれら革新論者の主張を入れて、挙国一体の成果を挙げようと焦った結果、彼らの主張の背後に潜んでいた意図を十分に見て取ることができなかったことは、全く不明のいたすところで、何とも申し訳なく、深く責任を感じる次第であります。
 昨今、戦局の危急を告げるとともに、一億玉砕を叫ぶ声が次第に勢いを増しつつあると考えています。このような主張をしている者は、いわゆる右翼っぽい感じの者であっても、背後よりこれを煽動しつつあるのは、これによって国内を混乱に陥れ、最終的には革命の目的を達しようとする共産主義分子であるとにらんでいます。一方においては、徹底的に米英撃滅を唱える反面、親ソ的空気は次第に濃厚になりつつある様子です。軍部の一部にはいかなる犠牲を払ってもソ連と手を握るべきだとさえ論じている者もおり、また延安(中国共産党)との提携を考えている者もあるとのことです。以上のように国の内外を通じて共産主義革命に進むべきあらゆる条件が日一日と成長しつつあり、今後戦局益々不利ともなれば、この流れは急速に進展するでありましょう。
 今後の戦局において、何でもいいので一縷でも打開の望みがあるというならば別ですが、敗戦は必至だという前提の下に論じてみるなら、勝利の見込みのない戦争をこれ以上継続するのは、完全に共産党の手に乗るものと思われます。従って国体護持の立場から見れば、一日も速やかに戦争終結を講ずべきものであると確信いたしました。
 戦争終結に対する最大の障害は、満州事変以来今日の事態まで時局を推進してきた、軍部内のそれら一味の存在であると考えています。彼らは既に戦争遂行の自信を失っていますが、今までの面目上あくまでも抵抗する可能性の高い者たちだと思われます。もしこの一味を一掃せずに早急に戦争終結の手を打とうとした場合には、右翼の民間有志も左翼の民間有志もこの一味と結託して国内に大混乱を引き起こし、私たちがなしたい目的の達成が困難になる恐れがあります。従って戦争を終結しようとすれば、まずその前提としてこの一味の一掃が肝要であります。この一味さえ一掃すれば、この一味の動きに便乗しようとする官僚、並びに右翼や左翼の民間分子も影を潜むようになるでしょう。確かに、彼らは未だ大きな勢力を結成しておらず、軍部を利用して野望を達成しようとする以外はないため、そのおおもとを断てば、枝葉は自ら枯れるものと思います。
 なおこれは希望的観測かもしれませんが、もしこれら一味が一掃させられた時には、軍部の様子は一変し、米英及び重慶(国民党)の空気が、ひょっとしたら緩和することはないでしょうか。そもそも米英及び重慶(国民党)の目標は「日本軍閥の打倒にあり」と言っているので、軍部の性格が変わりその政策が改められれば、彼らとしても戦争の継続について考慮するようになることもないのかなと思われます。
 それはともかくとして、この一味を一掃し軍部の立て直しを実行することは、共産主義革命より日本を救う前提となる先決条件であるとすれば、ここぞというご勇断をこそ(天皇陛下に)お願いしたい次第です。

 「国内の対立や摩擦を避けようとして、できるだけこれら革新論者の主張を入れて、挙国一体の成果を挙げようと焦った結果、彼らの主張の背後に潜んでいた意図を十分に見て取ることができなかったことは、全く不明のいたすところで、何とも申し訳なく、深く責任を感じる次第であります」との近衛の弁は、自己保身の言い訳だと言われても仕方ないだろう。敗戦革命論を当然知っていた近衛が「彼らの主張の背後に潜んでいた意図を十分に見て取ることができなかった」はずはないのだ。

 だが、いよいよ敗戦が確定的になり、どこか遠くにあると思っていた敗戦革命の可能性が現実的に見えてきた段階に至っては、そのリアリティーにようやくおののいたのかもしれない。現実のソ連や共産主義の実情が段々とわかってきて、日本の共産化を何としてでも阻止しなければならないと考えを変えたのかもしれない。敗戦革命がもたらされた時の自分や皇室が直面する運命について、ようやく真面目に直視しないわけにはいかなくなっただけかもしれない。実際がそのいずれであるのかはわからないが、それはともかくとして、近衛はさすがに共産主義を深く学んだだけあって、ソ連や共産主義者の意図を確実に読み解いて、内外の事態の推移を正しく観察していたことがわかる。近衛が「右翼は国体の仮面をかぶった共産主義者」と語っているように、共産主義者の中には、右翼の顔をして勇ましいことを口にしながら、敗戦革命のために日本軍を消耗戦へと導こうとする者も数多く暗躍していたわけだ。

 戦前の朝日新聞は右翼的だったという話を聞いたことがある人は多いと思うが、戦前の朝日新聞には尾崎秀実のような人物がたくさんいたことを忘れるべきではない。彼らが右翼的な主張をしたのはそちらの方が新聞の販売部数が増えるという営業的な理由もあったのだろうが、敗戦革命に日本を導くために右翼的な主張を敢えて行っていたことの方が主眼であろう。そしてこれは決して朝日新聞だけの話ではない。どのマスコミも内部は共産主義者やそのシンパばかりでありながら、右翼的な主張を述べていたというのが実際なのだ。だから彼らは戦後になって左翼的主張に矛盾を感じることなく簡単に「転向」できた。いまのマスコミにも続いている左翼的な伝統は戦前から脈々と通じていることなのだ。

 近衛上奏文はマスコミに向けて発表するために書かれたものではない。当然ながら、こんな内容の文章を戦争中に発表することなどできるわけがなかった。近衛は現下に進行していた状況に危機感を募らせて、陛下にはこの状況を正しく伝える義務があると感じたからこそ、上奏文を書き上げたのであろう。敗戦革命によって日本を共産化する策謀はもう一歩のところまで進展していたのである。政界だけでなく、官界、マスコミ、軍部などあらゆるところに、共産主義を信じ、敗戦革命に突き進ませようと考えた人たちがわんさかいたのだという事実を、軽視しないでもらいたい。

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