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左翼的思考を支える直感(1)



 かつて自分が左翼的思考に染まった経緯を振り返ってみると、いくつかの直感が関与していたように思う。これらはあくまでも私個人の直感なので、左翼的思考を持つ人たち一般に共通するかどうかは即断できないが、おそらく似たような感覚は持っているのではないかと思う。

 まずは、「私的な利益よりも公的な利益を目指すべきだ」との思いだ。私的な利益と公的な利益は実際矛盾することが多いし、公益性よりも私的な利益を優先してものごとを推し進めようとするのは、美しい姿とは言えないであろう。利潤追求という私的な利益のために公益性を無視する例は私がいちいち例示などしなくても枚挙にいとまがないだろうし、それによって莫大な富を形成している人たちも多くいることは確かだ。資本主義が認めている自由な利潤追求というのは、「人間はみな公的な利益を目指して行動すべきだし、みんながそうするようになれば、間違いなく素晴らしい世の中になる」という直感と矛盾することのように感じられるわけだ。これが「各人が私的な利潤追求のために動いていく世の中」=「資本主義社会」を否定し、「それに代わる新しい世の中」=「社会主義社会」を肯定する意識を支えることになる。

 もちろん現実にそのようなブラックな側面が資本主義社会に間違いなくあることは否定できない。しかもそれは決して例外などではなく、口先ではきれいごとの建前を言いつつ、裏ではとんでもないことをやっている経営者も実際に多い。そういう「大人の事情」を飲み込まないと生きにくい環境もある。こういう事情は特に潔癖さを求める人間たちには許されざるものと映るものだ。だが、そういう面でせこい奴らが金持ちになり、せこくない人たちが貧しさに喘いでいるかのように単純に捉えるとしたら、それは現実を反映するものとはなっていないだろう。現実の世界では、貧しい人たちの中にもせこい人間は実際に多いし、自らの弱者性を「売り」にすれば逆に優位に立てるという場合が到来すると、その立場を積極的に使おうとする醜さを発揮することも決して例外ではない。金持ちの中にセコくて汚い人間はわんさかいるだろうが、貧しい人の中にもセコくて汚い人間はわんさかいるのが実際だ。全員とは言わないけれども、人間にはそういう汚さや醜さが付いて回るのが当然なのではないだろうか。人間には人の気持ちを考えてなるべく寄り添おうとするような美しい心情も持ち合わせているのが普通だが、こちらだけに着目する見方が正しいとは言えないであろう。人様の役立つために精一杯自分の人生を費やしたいと一方で願っていながら、なるべくなら手抜きして楽をしたいという気持ちも持っていたりする。それが生身の人間だ。現実の大半の人間はこうした矛盾を複雑に持った中で悩んだり苦しんだりしながら、その都度選択を迫られて生きているものだ。そしてその現実は、人間の本性が矛盾に満ちているものである以上、どのような社会体制になったとしても、人間の持つ善の側面だけが出てくるとか悪の側面だけが出てくるというようなことはない訳である。

 ところが、左翼的な思考をする人たちは、人間の持つ悪の側面は社会体制の単純な反映だと考える。即ち、利潤追求のような歪んだ私的利益を認める資本主義社会が人間を悪に染まらせるのであって、利潤追求を認めない社会主義社会が到来すれば、人間の持つ悪の側面は出てこないと考えるわけだ。だが現実の人間はそんなに単純ではない。例えば、英会話がスラスラとできるようになりたいと願っている人は山のようにいるが、そのために必要な努力を厭わずにできる人は圧倒的に少ない。これは別に英会話がスラスラとできるようになることが利潤追求と結びついていようがいまいが関係ないだろう。得たい結果はあっても、そのために必要なつらい努力はしたくないというむしの良さは、もともと普通の人間には存在する。意義がわかってもできない人は、社会体制が変わってもできないことに変わりはない。それどころか、私的利益の追求がなくなると、働くエネルギーをそもそも失ってしまうことさえ人間としては普通のことだ。働かないと食べていけないという、いわばお尻に火がつくような状況があるから、そこから働くエネルギーをようやく得ている人は決して稀ではないだろう。社会主義国が建国後に国家建設に苦しんだのは、こうした人間の本性を誤ってみていたところも間違いなくあるだろう。つまり、左翼は人間の本性について唯物論的に正しく捉えておらず、誤った前提から出発していたから、社会主義国を正常に発展させられなかったのだ。

 そうは言っても、資本主義は歪んだ社会制度であって、決して美しくはない。資本主義を肯定したい見地から資本主義を美化する人たちも多いが、個人的にはその必要性は感じていない。ただ、資本主義にはそこで生まれた歪みが別の面から見たビジネスチャンスになるという面白い仕組みがある点は見逃さないほうがいいと思う。

 例えば紅茶のリプトンの創業者であるトーマス・リプトンは、ぼったくり価格で高い利潤をあげていく当時の主流の紅茶商のあり方自体にビジネスチャンスを見出した。即ち、高品質な茶葉を適正な利潤で、つまり当時主流だったぼったくり価格よりも遥かに安い値段で提供することによって、市場の大きな信頼を勝ち得た。ぼったくりが主流という歪んだあり方を打ちのめすことで、圧倒的なマーケットシェアを握れると、リプトンは冷静に計算したのだろうと思う。リプトンが真剣に公益性を考えたのかどうだかはわからないが、市場に生まれている大きな歪みを感じ取り、ここにつけ入る隙をビジネスチャンスとして見出し、果敢に攻めたわけだ。

 リプトンなんて古い話じゃピンとこないという人もいるだろう。ならば、ユニクロを考えてもいい。ヒートテックやエアリズムといった機能性の高い商品、つまり付加価値が高いと思われる商品を新しく生み出しながら、敢えてこれらを低価格で提供することでユニクロは圧倒的なマーケットシェアを握ることに成功した。低価格帯で勝負していた他のアパレルメーカーもユニクロの価格破壊に当然ながら巻き込まれることになった。廃業に追い込まれたところもきっと多かっただろう。だがユニクロは決してボッタクリに成功して他の業者を廃業に追い込んだわけではない。大企業というとなんとなく地位に安住して楽して儲けているイメージが付きやすいし、そういう企業ももちろんあるだろうが、そうした企業ばかりではないのだ。

 資本主義の仕組みは商品知識の乏しいお客様をぼったくる仕組みとしても利用できるし、実際そうしている会社も多いが、逆にそうした歪みを逆手にとってビジネスチャンスとする企業も存在するわけだ。そしてそのような企業が力を握るようになると、他社や業界全体のあり方にも大きな影響を及ぼすことになる。こうしたダイナミズムが資本主義には備わっているという点も認めた方がいいだろう。こうした仕組みを捉えることをせずに「資本主義は私的利益の追求を自由に認めているからけしからん」という素朴な捉え方は、あまり正当なものとは思えない。事実をありのままに見るのが唯物論の立場だとすれば、このような一方的な捉え方は唯物論的ではないし、科学的でもない。今でもぼったくりは普通にあるけれども、昔の世の中と比べてどうなのかといえば、随分とまともになったと言えるだろう。資本主義の進化がどんどんぼったくりのレベルを引き上げているとは断じて言えず、むしろぼったくりのレベルを結構引き下げることに貢献してきた側面もあるのだ。いつまで経ってもぼったくりがなくなることはないだろうが、それでもこの貢献は認めてもよいだろう。

 次に「資本主義は私的な利益をなるべく優先しようとして、他者の利益をないがしろにする」との思いだ。会社や資本家の利益を最大限にするように行動し、従業員などの利益は考慮してくれないというものだ。確かにそういう経営をしている会社は多い。サービス残業を従業員に押し付けながら、利益は独り占めするような経営者も決して少なくないだろう。そうした現実を多く目にするわけだから、資本主義の世の中は汚いと憂うのは自然な感情の発露ともなる。

 しかしながら、自社が順調にビジネスを伸ばしていくために、自社を支えてくれる仲間を増やすことを戦略として採用する会社も多い。自社だけでなるべく多くの利益を抱え込もうとするのではなく、ビジネスをともに進めていく協力会社に利益を分け与え、信頼の置けるパートナーシップを築くことでビジネスの拡大を図るような企業だ。これも一つの企業戦略である。お客様を裏切らないことを信条にして、お客様をファンとして取り込み、そうした熱いファンによって支えられることでビジネスを伸ばしていこうとする会社もある。会社の挙げた利益の分配において、儲かった利益を会社側が総取りするのでなく、従業員にも合理的な配分をあらかじめ提示して、業績の成否を賞与の多寡に直接反映させていく企業もある。つまり、それぞれの企業が採用するビジネス戦略によって、企業のあり方はまちまちだ。これを一面的に「資本主義企業=悪」のように扱う捉え方も、唯物論的ではないし、科学的でもない。

 次に「世の中の売れ筋商品が必ずしも本質的にいいものだとは考えられない」との思いだ。人気のアイドルが宣伝しているから売れているなんてのもあるし、面白いネーミングだけで売れているなんてのもある。こうしたものを例外として扱うとしても、巨大資本ゆえに売り場でいい場所を与えられているから売れているというものも実際に多いのかもしれない。逆に言えば、どんなにすぐれた商品であっても、弱小資本ゆえにいい売り場が与えられないから売れないということは普通にある。そして売れない売り場で売られているから売れないのに、商品に商品性がないと判断されて売り場から外されてしまうなんてこともある。一般の人が知らないような商品の隠れた価値を知っている立場にいるとすれば、本当に人々の役に立つものが売られなくなり、市場から消えていくと感じるのだから、切ないものだ。そもそも最初から売り場を用意してもらえないという商品が山のようにあり、その中には本質的には非常に優れた商品も結構あるはずだ。

 こういう話は資本主義社会ではいくらでもあるだろうし、そこに理不尽なものを感じることもあるだろう。だが、限られた陳列スペースの中にすべての商品を置くことなどもともとできないわけで、取捨選択は最初から必然だ。お店の側からすれば、消費者からの安心感の高い大手資本の商品をいい場所に置き、そうではない商品はあまりいいとはいえない場所に置くというのはやむをえないが、この仕組みが社会主義になったとして大きく改善されるとは考えられない。もともと限られたスペースしかなく、そのスペースの中にもいい場所と悪い場所があるのは必然である以上、改善をしようにも物理的な限界があるのだ。

 そもそも私がある商品について特殊な情報に基いてとてもいい商品だと思っていても、それは私がニセ情報に踊らされているだけかもしれない。「本質的にいい商品」を客観的に決めることができない以上、お店が試行錯誤しながら決める販売戦略を尊重するしかないのが現実だ。社会主義になって、「販売商品設置委員会」みたいなものができて、その委員会が「本質的にいい商品」を吟味してから陳列するものを決めることになったとしよう。その決定によって陳列する商品が決まるようになるとしたら、その委員会の持つ権限は絶大なものとならざるをえない。そしてその委員会に属する人たちへの働きかけを何とかして行おうとする人の動きは制限できないだろう。それが仮に制限できたとしても、商品の選定に委員会に所属する人たちの好みや価値観を排除して「本質的にいい商品」を選ぶことはもともとできないのだ。

 そもそももともとお店には部門ごとのバイヤーがいて、その専門的な知識も使いながら仕入れるものを決めていたりする。その専門のバイヤーよりも「販売商品設置委員会」の判断のほうが優れている可能性は非常に薄いだろう。弱肉強食の資本主義システムの矛盾の表出のように一見思えてしまうのはやむをえないが、お店ごとに別々に存在するバイヤーがそれぞれの判断に基づいて取扱商品を決めている現行の仕組みの方が、分散的で多様な判断がまだ尊重されやすい傾向にあるとも言えるのだ。またインターネット通販の広がりによって、従来よりも消費者の選択の幅は広がり、自分が求める商品を見つけ出すことは以前よりもやりやすくなった。技術の進歩によって選択の幅が広がっていることは私たちの利益にも貢献していると言えるだろう。

 こうして見た時に、資本主義批判として頭のなかに浮かぶものには確かに根拠はあるけれども、その見方は一面的であり、全体を包括した真に科学的なものではないことがわかるだろう。資本主義は決して美しいものではなく、汚いものに溢れている。頭の中に描きやすい理想的な社会とは随分違う社会である。そのために本来あるべき社会のあり方から外れたシステムだと思いがちなのだが、むしのいいことばかりを求める人間たちが作り出す社会としては割と整合性のある社会なのかもしれない。資本主義の醜さを告発し批判するのは容易なことではあるが、その結果として資本主義を全否定して社会主義を肯定するのは、ないものねだりのようなものでもあるわけだ。だが、日頃はこのあたりをツッコんで考えてみることはしないから、こうした陥穽に陥っている人たちはけっこう多いと思われる。

 まだまだ左翼的な思考に嵌りやすい直感はいろいろとあるけれども、今回はこのくらいにしておきたい。
 
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