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左翼的思考を支える直感(2)



 マルクスは(というより「エンゲルスは」と言った方が正確かもしれないが)生産力と生産関係の矛盾が資本主義の根本矛盾であると定式化した。社会全体が高度な分業社会になっているのに、私有財産制度に基づいて個別企業は社会全体の計画性など考えずにバラバラな経営判断で勝手に動いているから、資本主義はうまくいかないんだというわけだ。自分がこの考えに初めて触れた時には、脳天に突き抜けるような感動を覚えた。ここに資本主義の矛盾があり、だからこそ資本主義は崩壊の必然があるのだと思いこんでしまったのだ。だが、現実をよく見ると、この見方自体からして現実を反映したものとは言えないということがわかるようになってきた。

 トヨタのような大手自動車企業が車を製造する場合、これまでの販売実績に基づいて需要予測(販売予測)を立てるのは当たり前だろう。大まかな長期の需要動向を頭に置いていても、現実の需要は日々動いているわけで、こうした動きに合わせて生産量を日々調整させていたりもする。どういう部品がどれだけいるのかはこうした需要の変化に基づいて変わることになり、これに基づいて発注量が変化することになるから、下請け企業や孫請け企業にも需要の変化はすぐさま浸透していく。つまり親会社の発注動向に応じて下請け企業や孫請け企業も生産量を当然調整していくことになる。現実の世界においては、需要動向と無関係に個別企業がバラバラな判断に基づいて自社製品を作っているわけではないのだ。需要動向にあわせて柔軟に生産数量を調整する仕組みが資本主義には備わっているのである。なお、トヨタほどの緻密な生産調整は珍しいだろうが、適正在庫量を念頭に置いた緩やかな生産調整なら多くの企業で導入しているものである。

 下請け企業ではなかったとしても、実際の生産は顧客からの需要に基づいて決められているのが普通だ。何らの需要もないのにとりあえず大量に自社製品を作る企業はまず存在しないだろう。自社の存立のためには、企業は不用意な過剰生産→過剰在庫に陥らないように、需要動向に合わせる形で慎重に生産量を調整しているものだ。つまり資本主義経済のもとにあっては、現実の需要の変化に応じて生産量の調節は機敏になされる仕組みが働いているわけである。需要が増えていけば供給もそれに応じて増え、需要が減退すれば供給もそれに応じて減少する。「神の見えざる手」とよく言われ、神秘的に捉えられることが多いマーケットメカニズムであるが、発注量の変化に応じて生産量を調整するシンプルな仕組みがこの調整機構を支えていると考えればよいわけだ。

 これに対して社会主義計画経済においては、中央政府が個別の製品の生産量をあらかじめ決定し、それに合わせる形で国有企業が生産を行うことになる。多種多様な製品の現実の需要が中央政府が決めた計画と一致する保証は全くないが、一度決められた以上は企業は割り当てられた生産量をまずは生産することになる。最終的な生産物は余ってしまうかもしれないし、足りないかもしれない。だが、余ろうが不足しようが、そんなことは企業にとってみれば知ったことではない。指示された通りのものを指示された数量分だけ作ったのであれば、文句を言われるのは筋違いだろう。

 実際には途中で計画の修正が行われ、これに伴い増産の要請が生産企業に突然やってくることがあったりする。だから、いつ増産の要請がやってきてもすぐさま対応できるように、原材料や部品にしても労働力にしても、普段から不必要なくらいにストックするという非効率な対応が「必要」になる。普段はダラダラ働いて、増産要請がきたらちょっとだけちゃんと働くくらいが「ちょうどいい」わけだ。

 多くの収益を上げる優良企業は国に利益を吸い上げられ、収益の上がらない赤字企業がその利益で救われるような体制であれば、生産性を向上させて利益率を高めようとするインセンティブはなかなか働かない。中央とのコネクションの強さとか人間関係の良好さのほうが、企業そのものの生産性を高めることよりも企業経営にとって大切なのだ。この結果、中央集権は必然的に強固なものとならざるをえないし、生産性は後回しにされざるをえない。

 あらかじめ決められた仕様を満たしているなら、それ以上の品質のものをわざわざ作り出す必要もない。ましてや今までにない完全に新しいものを現場感覚から作り出すことなど、中央統制経済においては考えられない。そんな余計なことをしなくても企業は存立していけるのである。今までよりも優れたものを作り出せれば競争上の優位に立てる資本主義と比べると、これらの点でも社会主義的な統制経済は劣ると言わざるをえない。

 共産主義の理想を信じている人には受け入れがたい現実だろうが、社会主義的統制経済よりも資本主義的自由経済の方が遥かに優れているというのは、このように唯物論的に現実に即して考えた場合には明らかなのだ。

 さてここでさらに社会主義・共産主義にとって不都合が事実が明らかになる。それは、社会主義において必要とされる人材は、中央の司令に忠実に従う人間にならざるをえないというところだ。中央司令の計画経済に従うとすれば、指示されたものを指示された数量だけ作りさえすればよいのだから、製品の改良、新製品の開発、ムダの削減、生産工程の改良などなどのために創意工夫を発揮するインセンティブが極めて小さいものにならざるをえない。したがって各人の自発性とか創造性とかは生産活動においては不必要なものとされてしまうのである。この結果、社会主義のもとでは労働倫理も低下してしまうのだ。社会主義の実現によって人間の自由な発展が約束されると信じていた共産主義者には、これはまさに悪夢である。各人の自由な発展は社会主義を成立させないことになるからだ。

 そしてこのことを裏面から見れば、社会主義に基づく計画経済においては、中央集権的な構造を必然的に志向することを意味する。全ての情報を中央に集めないと経済計画は立てられないし、どの企業にどれだけの仕事をさせるかも中央のさじ加減で決まることになるからだ。情報も権力も中央に集まらざるをえない結果として、社会主義的な官僚制度は中央集権色が極めて濃厚で、かつ極めて強固なものにならざるをえない。スターリンや毛沢東が社会主義を捻じ曲げたんだという主張を行うことで共産主義を擁護する人もいるが、彼らに個人独裁を許してしまいやすい極めて強固な中央集権的な仕組みが社会主義にあったという現実を見落とすべきではないだろう。中央集権的な構造を抱える社会主義計画経済よりも、分権型のマーケットメカニズムの方が明らかに優位だと言えるだろう。

 それでも私は、近代経済学(マルクス主義経済学の立場に立たない、普通の経済学のことをこのように呼ぶことがある)が持ち出す「均衡」という考え方には全面的には賛同できない。そもそも人間の心自体が移ろいやすいものであって、何をどのくらい欲するかなんて、定まってはいないからだ。エアロビがはやったらレオタードの需要が激増して供給が全く追いつかなくなったが、レオタードの生産が軌道に乗った頃にはエアロビ熱はすでに冷めていてレオタードは供給過剰に陥ったなんて話がある。これは決して特殊な事例ではなく、こんなことが頻発するのが資本主義の世の中だ。

 近代経済学は理論の単純化のために、消費者は商品に関して完全な情報を持つことを前提とするわけだが、現実の人間の場合には存在すら知らない商品だって山のようにあるし、新奇な商品に出会った時にその新奇性に心躍ることも多いし、飽きがすぐ来るなんてことも当たり前だし、流れてくる情報の真偽を正しく見極める能力も大したことはなく、無責任な噂なんかにも簡単に影響を受けてしまう。現実の消費者には「情報の完全性」なんて全く存在しない。

 需給バランスが価格変化に強い影響を与えるのは事実だし、価格変化が需給関係に影響を与えていくのもその通りだと言ってよいとは思うが、現実の商品取引においては安定した需要曲線と供給曲線の存在を前提に価格や需給の変化がなめらかに起こるとは言えないだろう。流行が過ぎ去れば、需要はまさに蒸発する。

 資産価格についても考えてみよう。株式を購入する場合に、会社の成長性に対する期待や受け取れる配当金や株主優待から見て長期保有するだけの価値があると考えて購入する人ももちろんいるだろうが、短期的な値上がり益を求めて購入する人も多いだろう。バブル現象は短期的な値上がり益を求めて購入する人たちの力が強くなり、株価の歪みが大きくなることによって生み出される。そのような株価形成の歪みが生まれることで、将来の値上がりの期待値がさらに上がり、短期的な値上がりを求めて購入する人たちの力がますます強くなり、さらに株価形成の歪みは大きくなる。このようにゆがんだ需要が大きくなることによって、価格形成に歪みが生じ、それがどんどんと拡大するということも資本主義では普通に起こることだ。

 このような歪みは時には何年にも渡って拡大し続けることもあるが、いつまでも放置されるわけではない。例えば、歪みが生じていることに対して逆方向から切り込むことで大儲けを企む人たちの力が優勢になることだってありうる。何らかの大きな事件(例えばサブプライムローンの破綻)によって投資マインドに大きな変化が生み出されることだってある。安定した需要曲線を前提とすれば、価格が暴落すれば買い手は強くなるはずだが、現実には価格の暴落それ自体が原因となって買い手が蒸発してしまうということも起こりうる。このように見てくると、安定した連続的な変化で資産価格の変化を捉えようということが現実には適合しない考えだということがわかるだろう。

 だから共産主義者はこうした破壊的な経済の動きが生まれることを資本主義の構造的な欠陥だとみなしたし、その理解がそんなに的外れであるとは現実にも言えないと思う。資産価格の不均衡(バブル)が長期間にわたって拡大し、やがてはその不均衡が劇的に破裂するのが実際だからだ。にも関わらず、マーケットメカニズムによって需給の均衡点がなめらかに動いていくものだとして資本主義を理解しようとするのは、学問的に不誠実だと言われても仕方ないだろう。

 そして資産価格の激烈な変動は実物経済の需要にも影響を及ぼすことになる。資産価格がどんどん上昇していけば、それだけで儲かっていると考えて財布の紐がゆるくなるのは当たり前のことだ。これが実物経済の需要を押し上げる作用を当然果たすことになる。したがって、資産価格がやがてクラッシュを引き起こした時には、バブル期の旺盛な消費マインドが一気に冷え込み、バブル期とは似ても似つかないほど需要を劇的に減少させてしまうということも起こりうるわけだ。自分の資産を効率的に増やそうとして多額の借入を行っているとすれば、その被害は絶大だろう。資産価値が暴落していても、借入残高は減少しないからだ。

 たとえば金利1%で1億円のお金を借りて、株式投資を行ったとする。1年後に株価が1億3000万円になっていれば、金利分の100万円を支払っても2900万円の利益が上がっていると考えることになる。こうした場合には財布の紐はゆるくなる。1000万円遊びに使っても、まだ1900万円も利益が余っているように感じるからだ。だが、その後株価が大暴落に転じて、2年後の株価が7000万円になってしまったとしたらどうだろう。1億円借りたお金が7000万円になっているので3000万円の損失が出ていて、2年分の金利の200万円を含めると、3200万円の赤字となる。借りた1億円の元金が減るわけではないので、暴落しても返済の負担は変わらない。当然ながら、今後の消費を大幅に削ることで3200万円の穴を埋めなくてはならなくなるわけだ。さらに1年目に1000万円遊びに使ってしまったとすれば、埋めなければならない穴は4200万円ということになる。バブルが弾けると急ブレーキがかかったようにその後の消費行動が抑制される仕組みが実感してもらえただろうか。4200万円という穴を埋めるには膨大な時間がかかるのは言うまでもない。1〜2年では到底無理だろう。だからこうした消費の抑制は長期間に渡って続いていくことになる。同じ収入を得ていても、バブル崩壊前とバブル崩壊後では消費行動はまるで変わってしまうのだ。資産価格が暴落することによって生じる経済への大きな圧迫は決して無視できるほど小さいものではない。

 資産価格がバブル的に拡大した背景には、信用の増大(多額の借入)が伴っており、バブルが崩壊するとバブルによって膨れ上がっていた需要が失われるだけでなく、残った借入の返済圧力が経済に加わることによって、将来の需要をも激減させてしまうのだ。「私は株を買っているが、借金はしていないぞ」という方からすれば、この説明には反発を覚えるかもしれない。だが、バブル的な価格上昇が生まれている時には、社会全体で見た場合には資産取引に使われるお金の量が急増していくことが必然的に伴うわけであり、そこには信用の増大、すなわち借入の増大が必ず隠れているものなのだ。

 それはともかくとして、バブル崩壊によって需要が突然蒸発するかのように失われる事態は資本主義経済においては起こりうる。そしてその影響は全世界的に波及しかねない。1929年のウォール街の大暴落によってアメリカの消費者の行動は激変したわけだが、それによって当時日本の主力輸出品であった生糸価格も暴落し、日本経済に大打撃が加えられた。バブル崩壊によって高級な絹織物製品に対する需要がなくなったため、生糸の需要もなくなってしまったからだ。リーマンショックの際には、欧米諸国が金融機関を救済するために一気に金融緩和に動いた中で、日本はリーマンショックの直接の影響がほとんどなかったので、特別な金融緩和を進めなかった。このために相対的に見ると日本の金利が突出して高い状態となり、円で運用しようとする動きが強まったことから円高が急激に進んで日本の輸出業に大きな打撃が加わった。また長く使おうと思えば更新せずに使い続けられる機械設備の需要が一気にしぼんでしまったため、こういう機械設備の生産が強い日本には強い打撃が加わった。日本はリーマンショックによる直接の影響がほとんどなかったはずなのに、受けた経済的な打撃は極めて大きなものになったのだ。

 バブル崩壊は実に無慈悲で破壊的な影響を与えてくる。だから近代経済学が指し示すような、均衡点のなめらかな移動による調和の取れた経済変動という理解は机上の空論だとしか思えず、その結果として左翼的な見解に走ってしまうことは別におかしなことだとも言えないのだ。日本がバブル経済に踊っていた1980年代に、この現象がどういう仕組みによって支えられているかを明らかにした書籍は、実はマルクス経済学の立場からかなり多く出版されていた。そしてその中には本質を突いていると感じられるものも割とあったのだ。

 だから左翼が行う学問研究の中にも高い評価の与えられるものもあるわけだが、それでも私が左翼に対して不満なのは、こうした破壊的な動きがそれまでの歪みを強制的に修正する役割を果たしている点を過小評価しているように私には感じられるからだ。

 リーマンショックがもたらした実体経済への破壊力は凄まじいものだったし、この破壊力に対抗するためにアメリカ政府が行った財政出動や低金利政策はモラルの点で許し難いレベルのものでもあった。オバマ政権の経済諮問委員会の委員長のクリスティーナ・ローマーがリーマン・ショックを乗り切るために求めた緊急出動の財政規模はなんと1兆8000億ドル(180兆円)であった。こんな金額の財政投入はさすがにできないとオバマ大統領はためらい、実際にオバマが議会の承認を取ったのはその半分以下の8000億ドル(80兆円)だった。半分以下とはいえ、8000億ドルはとてつもない金額だ。

 金融機関はバブルを作り出しながら荒稼ぎをしてきた。他の業界では考えられないくらいの高給を取ってバブリーな生活をしていた。そしてその結果としてとんでもない破壊を社会にもたらした。金融機関が自分たちの金儲けのためにバブルを引き起こして崩壊させたんだから、金融機関の方で処理をしろよというのが正論だ。だから、この破壊を修復するのにこれほど膨大な財政出動を行うというのは、庶民感情からすればとても容認できるものではなかったろう。そもそもアメリカの政界と金融業界との癒着は凄まじいものがある。歴代の政府の要職にはゴールドマンサックス出身者がなぜか多く入り込んでいて、リーマンショックが発生した時の財務長官だったポールソンもゴールドマンサックス出身者だった。

 ただそういう感情を排除してバブルの後処理を考えるとすれば、バブル崩壊によって生じた需要の蒸発の穴を埋めるにはこれほど莫大な政府支出の増大が必要だというのが大恐慌研究の第一人者であるローマーの判断だった。彼女は大恐慌発生時のフーバー大統領による積極財政は財政規模が小さすぎて効果が感じられるものにならなかったから、同じ轍を踏むことを避けるためには、大胆な積極財政に出るしかないと判断したのだ。このローマーの判断は私は正しいと思う。そしてその後アメリカ経済はリーマンショックを克服して、成長軌道に復帰していった。そしてここで見落としてはいけないのは、こんな理不尽な非常手段に頼りながらも、資本主義はこの危機を克服する力を発揮したというところだ。

 戦前の大恐慌の際には、このような大恐慌を二度と引き起こさないようにするために、自由な金融取引に大幅な規制を加えるグラス・スティーガル法と呼ばれる厳しい法律が導入された。グラス・スティーガル法は徐々に骨抜きにされながら1999年に撤廃され、その結果がリーマンショックにつながったとも言える。この反省からアメリカ政府はボルカールールと呼ばれる厳しい金融取引規制を再導入したり、格付け会社の格付けのあり方にも変更が加えられることになったわけだが、ここで真っ先に確認しておきたいのは、歪みが過度に大きくならないようにするために何らかの制度変更を行うということは、資本主義という枠の中でも可能だというところだ。

 金融機関の持つ強大な権力に政治が再び影響されて、ボルカールールが緩められていくということも起こりえるだろうし、その結果として再びリーマンショックのような事態に陥ることもあるかもしれない。あるいはボルカールールではまだ規制が甘く、リーマンショックのような事態を再び引き起こしてしまうことで、ボルカールールより強力なルールが新たに策定される時がやってくるかもしれない。いずれにせよ、そういう失敗を繰り返す中で規制のあり方はどんどんと変化し、規制の落ち着きどころが徐々に定まっていく仕組みを持っているのも、資本主義の利点なのだ。

 適切な規制が定まってくるまで、場合によっては1世紀以上の時間が必要になることもあるだろう。短気な人にはとても我慢がならないだろうし、不適切な規制(あるいは無規制)に晒されることで生涯不遇に晒される人たちにはお気の毒としか言いようがない。だが我々は神ではないので、過ちを繰り返すことはやむをえないのだ。

 こう書くと、グラス・スティーガル法が完全撤廃された1999年の段階でリーマンショックのような金融破綻がいつかやってくることは予見できたという人も出てくるだろう。神ではなくても予見はできたのだと。そうした予見がものすごく難しいものかといえば、そんなに難しいものでもなかったし、私も予見していた一人ではある。にも関わらずグラス・スティーガル法が撤廃されたのは、強大な力を持つ金融機関の政治力が強かったせいだと言っても間違いではなく、だからそこには資本主義の醜悪さが露骨に絡んでいるというのも間違った理解ではない。むしろ正しい理解だと思う。

 だがそうした制度変更がものすごい負の作用を果たした際に、資本主義という枠を維持したまま、制度の再修正を図ることはできるのだ。そしてその際には欲得にまみれた金融機関の思惑は当然抑制されることになる。やがてこの痛みを忘れて、再び金融機関の政治力によって規制が緩むということがあるとしても、前回の失敗に対する言い訳もできないといけないから、以前と全く同じになるわけではない。規制緩和の結果として再び破綻に見舞われたら、規制は当然再度強化される方向で見直されることになる。このような規制強化と規制緩和の繰り返しの中で、歴史的に蓄積された経験に基づき、落ち着きどころをやがては見出していくわけだ。

 資本主義においては金を持っている者が政治の面でも強い影響力を持ち、彼らに有利になるように制度変更がなされることは珍しいことではない。だが、常にそればかりというわけでもない。特に民主主義国においては一般国民の幅広い支持を得ないと政権を維持することはできないから、金持ちばかりを配慮するというわけにもいかない点を見逃すべきではない。

 三重県の四日市はかつて四日市喘息で知られる公害の街だった。電車が四日市のコンビナートの近くを通過する時には、空気の臭いがあまりにきついので、開いている窓があれば乗客自ら率先して閉めるほどだった。こんなところには絶対住みたくないと思うほどひどかったが、今では公害規制は抜本的に強化され、こうしたエピソードは今や完全な昔話となっている。こうした規制強化が資本主義という枠組みを維持したまま行われていることを見落とすべきではない。

 バブルや流行に踊らされたわけではなくとも、社会構造が劇的に変化する中で、経営環境が急激に悪化する企業も多いだろう。例えばインターネット通販がどんどん広がっている状況にあって、街中にある実店舗は徐々に厳しい経営環境に追いやられている。こうしたことによって生まれる悲劇は当然資本主義が生み出したものなのだが、社会が固定されておらず、そうした移ろいがあることは資本主義のダイナミズムでもあるという点はむしろ評価すべきところでもある。すなわち、社会の動きに合わせて姿・形をどんどんと変化させていけるということだ。インターネット通販の広がりによって存続が厳しくなっている店舗にとってみれば、これはシャレにならない死活問題だ。まさに笑えない現実であろうが、他方でこれによって私たちの生活の利便性が向上している側面があることも見逃すべきではないだろう。足腰が弱って外出もままならなくなった老人にとっては、家にいながら必要なものが全て届く通販・宅配は必須のライフラインになっていたりもする。

 また、資本主義のもとで生まれてくる無慈悲な動きは、資本主義そのものの欠陥というよりも、現実の人の心の移ろいやすさ、いい加減さの反映だと捉えるべきものである。資本主義が人間の自由な選択を許容しているのがけしからんということもできるから、その意味では資本主義の持つ欠陥だと言えなくもないが、私たちは自分たちの自由な選択を原則として許容する社会に住みたいのか、原則として許容されない社会に住みたいのかと問われれば、大半の人たちが原則として許容する社会に住みたいと答えるだろう。私たち人間がもともと移り気でいい加減であることを認めながら、なおかつそれでも自由気ままな選択を原則として許容する社会に住みたいのであれば、その社会が生み出す不条理には我々は付き合っていくしかないのである。いいとこ取りだけしたいというのは人間の当然の感情ではあるが、それは虫がよすぎるという諦念もあるべきではないかと思う。社会の否定的な側面をえぐり出すことも時には大切なことだが、そこで考えがストップして肯定的な側面に目を向けないとすれば、その考えは成熟した大人にはふさわしくないだろう。唯物論がリアルな現実からものごとを見るという立場なのであれば、従来の左翼的思考の枠から抜け出すことが唯物論の課題ではないだろうか。

 この点から、計画経済という思想についても批判を加えておきたい。私たち人間がもともと移り気であり、いい加減でありながら、それでも自由を求める存在であることを前提とするなら、私たちの求める需要を5カ年計画といったものに枠付けるのはそもそも無茶な話だったということになるだろう。

 「共産党宣言」によれば、社会主義とは、各人の自由な発展が万人の自由な発展のための条件となる共同社会だとされている。営利目的から自由になることで、人間は自由な発展が可能になり、生来持っている「人のために尽くしたい」という社会性を全面的に開花させ、それが社会全体の基礎になるというのがその主張だ。こういう理想が実現できるのであれば実現したいと思うのは決しておかしなことではないし、この美しさに魅了された人が共産主義者になっていったとも言える。だが仮に各人が自由に発展することを許すならば、各人の需要はバラバラで多様なものとならざるをえない。そしてその需要が将来に渡ってどう変化していくことになるのかもわからない。つまり需要が各人の自由な発展によって生み出されていくものである以上、事前に予見不可能なものであるので、あらかじめ定めた全体計画通りに需要が決まることはありえないわけだ。近年は特に時代の変化の速度が上がっているわけだが、こうした速度変化に対しては社会主義は本質的に適応しにくいシステムである。今までにない技術がどんどんと生み出され、そうした技術がこれまで考えることもしなかった新たな需要を切り開いていけるような社会にあっては、事前の計画に基づいて需要量を確定しておくような仕組みはまともに機能するわけがないと言わざるをえない。したがって計画経済を進める以上、その社会を構成する人間は自由な発展を要求しない存在でないと困ってしまう。

 社会主義社会では商品生産の面で見ても中央の司令に逆らわずに従う受動的な人間を要求することになる上に、消費の面でも中央の司令の枠内に収まりながら不満を抱かないことが求められるわけだ。実際ソ連や東欧に出現した社会主義経済のもとでは、消費財の品質の低さ、多様性や面白みのなさばかりでなく、そもそも数量の絶対的な不足にも悩まされていた。生産性向上のインセンティブが働かないので、生産性が低いままに押しとどめられていたからだ。商品が不足しているので、購入するためには長い行列に並ばざるをえず、並んで買えるものも面白みのない低品質のものばかりだった。それでも不満を持たないようにしないと生きていけなかった。

 この基本的な性質は社会主義の本質から導かれるものであるから、今後社会主義が実現しても「各人の自由な発展が万人の自由な発展のための条件となる共同社会」は実現できないことになる。受動的で従順な人間たちから構成されないと、計画経済はうまくいかない。独立独歩で自律的に人生を切り開いていこうとする人間は、社会主義では困った存在になってしまう。人と違ったものが欲しいと思うこと自体が、社会主義では極めて難しいことになってしまう。この矛盾にも社会主義者・共産主義者は唯物論的に真面目に考察してもらいたい。

 さらに現実に誕生した社会主義社会では、真面目に働こうが不真面目に働こうが得られるものに大差がないという悪平等によって事なかれ主義がはびこり、生産性は大きく落ち込むことになった。どんなに生産性が低くても会社が潰れることはなく、危機感の欠如から官僚主義的な停滞が蔓延した。この現実も、社会主義者・共産主義者は唯物論的に真面目に考察すべきだろう。

 さらに言えば、革命を起こすことで貧者の苦しみは一気に解決するかのように共産主義者は考えているわけだが、社会全体の生産力が高くない状態で革命を起こして搾取をなくしたとしても、貧者の生活状態の変化には自ずと限界があると言わざるをえない。このあたりを共産主義者は完全に見誤ったとも言える。

 我々の社会が豊かになるためには、働ける人が全員なるべく効率よく働けるようにする、つまり供給力を最大限にしながら、その供給力に見合うだけの需要がある世の中を作ることが重要だ。つまり、社会全体で見て「よく働き、よく遊ぶ」状態を作り出すことが重要で、これをできる限り達成するように国全体を動かしていくことが、政府に求められる役割だということになる。私たちの生活水準は富の分配がどうなされるのかという部分にも当然規定されるけれども、私たちの住む社会全体がどの程度の生産性・生産力を有するのかという部分にこそ大きく規定されるものなのだ。貧富の格差が全く縮小しなくても、一人当たりGDPが2倍になるなら、私たちの暮らしはそれだけ楽になり、貧困の問題は大きく解消するという視点を私たちは持つべきだろう。社会主義において改善されにくい生産性こそが、私たちの豊かさと本質的に繋がっているという点を見落とすべきではない。

 マーケットメカニズムは非人間的な顔も持ち合わせているシステムであり、これを嫌う気分は自分にはよくわかる。マーケットメカニズムによって優れた商品が生き残り、劣った商品が淘汰されるとよく言われるが、実際にはそんなに単純でもない。商品力があっても販売力がなければ売れないことが多いし、逆に商品力がイマイチでも販売力が強力だったら売れてしまうのは普通のことだ。商品の競争が常に公正に行われているわけでもなく、不誠実な手段に頼った方が競争上有利になるようなことも多いから、そういう汚い手が使われることは珍しいことではない。だとしても、だから資本主義はダメなんだという結論に飛ぶとしたら、それは単に「隣の芝は青く見える」ということにすぎないのだ。資本主義は決して完璧なものではないし、醜悪なところも多々あって、現実にその社会の中で暮らしていると不愉快に感じることも多いものだが、それでも社会主義・共産主義と比べたら遥かにマシだというのが実際なのである。

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