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左翼的思考を支える直感(2)

 左翼的思考を支える直感として他に挙げたいものとしては、近代経済学(マルクス主義経済学の立場に立たない、普通の経済学のことをこのように呼ぶことがある)が持ち出す「均衡」という考え方が欺瞞にあふれたものに思われることだ。需要と供給のバランスによって均衡点が生まれ、自動的に最適な状態が形成される仕組みが資本主義には備わっているというあの考え方だ。

 この考え方にはいろんなツッコミが入れられるが、最も簡単なツッコミは、ではなぜバブルが生じるのかというものだ。バブルなどというものは不均衡が拡大した極みみたいなものであって、それが弾けると経済に絶大な負の影響を及ぼすのは、リーマンショックの例など引かずとも明らかだろう。

 これは需要に歪みがあるということを意識すればわかる。株式を購入する場合に、会社の成長性に対する期待や受け取れる配当金や株主優待から見て長期保有するだけの価値があると考えて購入する人ももちろんいるだろうが、短期的な値上がり益を求めて購入する人も多いだろう。バブル現象は短期的な値上がり益を求めて購入する人たちの力が強くなり、株価の歪みが大きくなることによって生み出される。そのような株価形成の歪みが生まれることで、将来の値上がりの期待値がさらに上がり、短期的な値上がりを求めて購入する人たちの力がますます強くなり、さらに株価形成の歪みは大きくなる。このようにゆがんだ需要が大きくなることによって、価格形成に歪みが生じ、それがどんどんと拡大するということも資本主義では普通に起こることだ。

 このような歪みは時には何年にも渡って拡大し続けることもあるが、いつまでも放置されるわけではない。歪みが生じていることに対して逆方向から切り込むことで大儲けを企む人たちの力が優勢になることによって、一気に流れが逆転するということも起こりえるわけだ。資産価格が暴落することによって生じる経済への大きな圧迫は決して無視できるほど小さいものではない。だから左翼はこうした破壊的な経済の動きが生まれることを資本主義の構造的な欠陥だとみなしたし、その理解がそんなに的外れだとは現実にも言えないと思う。むしろこうした不均衡が生まれることを直視しないまま、資本主義においては「神の見えざる手」に導かれるように均衡点が連続的に動いていく中で順調に経済が進んでいくという理解の方が、明らかに学問的に不誠実なものだと言えるだろう。

 しかしながら左翼は、こうした破壊的な動きがそれまでの歪みを強制的に修正する役割を果たしている点を過小評価しているように私には感じられる。確かにリーマンショックがもたらした実体経済への破壊力は凄まじいものだったし、この破壊力に対抗するためにアメリカ政府などが行った財政出動や低金利政策はモラルの点で許し難いものでもあった。すなわち、このようなバブルを作り出しながら人並み外れた高給をばら撒いてきた金融機関を膨大な財政出動や低金利政策によって救済するというのは、庶民感情からすればとても容認できるものではなかっただろう。そこには政界と金融業界との癒着が明らかに存在した。だからまさに醜悪の極みではあるのだが、それでも資本主義は理不尽な非常手段に頼りながらも、この歪みを正していく力を発揮したとも言えるのだ。

 戦前の大恐慌の際には、このような大恐慌を二度と引き起こさないようにするために、自由な金融取引に大幅な規制を加えるグラス・スティーガル法と呼ばれる厳しい取引規制の法律が導入された。グラス・スティーガル法は徐々に骨抜きにされながら1999年に撤廃され、その結果がリーマンショックにつながったとも言える。この反省からアメリカ政府はボルカールールと呼ばれる厳しい金融取引規制を再導入したり、格付け会社の格付けのあり方にも変更が加えられることになったわけだが、ここで真っ先に確認しておきたいのは、歪みが過度に大きくならないようにするために何らかの制度変更を行うということは、資本主義という枠の中でも可能だというところだ。

 金融機関の持つ強大な権力に政治が再び影響されて、ボルカールールが緩められていくということも起こりえるだろうし、その結果として再びリーマンショックのような事態に陥ることになることもあるかもしれない。だが、そういう失敗を繰り返す中で、規制の落ち着きどころが徐々に定まっていく仕組みを持っているのも、資本主義の利点なのだ。

 適切な規制が定まってくるまで、場合によっては1世紀以上の時間が必要になることもあるだろう。短気な人にはとても我慢がならないだろうし、不適切な規制(あるいは無規制)に晒されることで生涯不遇に晒される人たちにはお気の毒としか言いようがない。だが我々は神ではないので、過ちを繰り返すことはやむをえないのだ。

 こう書くと、グラス・スティーガル法が完全撤廃された1999年の段階でリーマンショックのような金融破綻がいつかやってくることは予見できたという人も出てくるだろう。そうした予見がものすごく難しいものかといえば、そんなに難しいものでもなかったし、私も予見していた一人ではある。にも関わらず撤廃されたのは、強大な力を持つ金融機関の政治力が強かったせいだと言っても間違いではなく、だからそこには資本主義の汚さが露骨に絡んでいるというのも間違った理解ではない。むしろ正しい理解だと思う。

 だがそうした制度変更がものすごい負の作用を果たした際に、資本主義という枠を維持したまま、制度の修正を図ることはできるのだ。そしてその際には欲得にまみれた金融機関の思惑は当然抑制されることになる。やがてこの痛みを忘れて、再び金融機関の政治力によって規制が緩むということがあるとしても、前回の失敗に対する言い訳もできないといけないから、以前と全く同じになるわけではない。規制緩和の結果として再び破綻に見舞われたら、規制は当然強化される方向で見直されることになる。このような規制強化と規制緩和の繰り返しの中で、歴史的に蓄積された経験に基づき、落ち着きどころを見出していくわけだ。

 資本主義においては金を持っている者が政治の面でも強い影響力を持ち、彼らに有利になるように制度変更がなされることも珍しいことではない。だが、常にそればかりというわけでもないのだ。特に民主主義国においては一般国民の幅広い支持を得ないと政権を維持することはできないから、金持ちばかりを配慮するというわけにもいかない点を見逃すべきではない。

 三重県の四日市市はかつて四日市喘息で知られる公害の街だった。電車が四日市のコンビナートの近くを通過する時には、空気の臭いがあまりにきついので、開いている窓があれば乗客自ら率先して閉めるほどだった。こんなところには絶対住みたくないと思うほどひどかったが、今では公害規制は抜本的に強化され、こうしたエピソードは今や完全な昔話となっている。こうした規制強化が資本主義という枠組みを維持したまま行われていることを見落とすべきではない。

 バブルに限らず、資本主義社会での取引においては社会的な流行などによっても需要の歪みは生じることになる。流行が終わったことで需要がパタッとなくなって窮地に陥る企業は少なくなく、そうした企業は移ろいやすい資本主義に翻弄された犠牲者だとも言える。

 バブルや流行に踊らされたわけではなくとも、社会構造が劇的に変化する中で、経営環境が悪化する企業も多いだろう。例えばインターネット通販がどんどん広がっている状況にあって、街中にある実店舗はどんどん厳しい環境に追いやられているだろう。こうしたことによって生まれる悲劇も資本主義が生み出したものだと捉えることはもちろんできるが、社会が固定されておらず、そうした移ろいがあることは資本主義のダイナミズムでもあるのだ。すなわち、社会の動きに合わせて姿・形をどんどんと変化させていけるということだ。インターネット通販の広がりによって私たちの生活の利便性が向上している側面があることも見逃すべきではないだろう。

 私が言いたいのは、資本主義の中での調整過程というものは、均衡理論などによって示されるような調和的なものとは決していえないということだ。そもそも人間の心自体が移ろいやすいものであって、何をどのくらい欲するかなんて、全く定まってはいない。エアロビがはやったらレオタード需要が激増して供給が全く追いつかなくなったが、レオタード生産が軌道に乗った頃にはエアロビ熱はすでに冷めていて供給過剰に陥っていたなんて話もある。これは決して特殊な事例ではなく、こんなことが頻発するのが世の中だ。バナナが健康にいいだの、バナナがダイエットの武器になるだのといった番組がテレビで放送されたら、店先からバナナが消えるほどの影響がある。近代経済学は理論の単純化のために、消費者は商品に関して完全な情報を持つことを前提とするわけだが、現実の人間は自分それまで知らなかった商品に出会っただけで心躍ることも多いし、飽きがすぐ来るなんてことも多いし、流れてくる情報の真偽を正しく見極める能力も大したことはなく、無責任な噂なんかにも簡単に影響を受ける。「情報の完全性」なんて存在しないし、新しい情報が出てくればそれに飛びつきたくなるものだ。飛びつきたくなってもそれは比較的短期間の話であるのが普通で、やがては熱は冷めてしまい、なんであんなに熱を上げたのかさえわからなくなることもある。近代経済学が言うように、需給バランスが価格変化に強い影響を与えるのは事実だし、価格変化が需給関係に影響を与えていくのもその通りだと言ってよいとは思うが、安定した需要曲線と供給曲線の存在を前提に価格や需給の変化がなめらかに起こるようなものでは断じてないのだ。こうした変化は実に無慈悲なものであることも多いし、時には破壊的ですらある。だから近代経済学が指し示すような空論には感情的な反発を覚え、その結果として左翼的な見解に救いを見出すことは故ないことではないとも思うのだ。

 私もそうであった。さらにマルクス経済学は資本主義における競争の無慈悲さを浮き彫りにするだけでなく、資本主義が自由競争の結果として自由競争の反対物とも言える独占を生み出していく歴史的な過程も扱っている。そのような歴史的な認識というのも現実を反映していると感じられた。こうした歴史的な認識はものの見方において非常に大切な視点でもあると思うが、こうした見地が一般に近代経済学には欠けていることもこの学問の欠点だと私には感じられた。そしてこの認識は左翼思想から距離を置くようになった今でも、自分の中には変わらずに存在している。だから左翼的な見解に立つ人の考えに、私個人はシンパシーも感じるのだ。

 ただ左翼的な人たちが見落としているのは、いくら資本主義が醜悪であり無慈悲なものであっても、歪みを調整する機構を備えている点だ。時には国家の強力な介入を必要とする場合もあるし、それがモラルハザードを引き起こしている場合もあるが、それでも何とか立ち直らせる力が資本主義には備わっているという事実を、私たちは見逃すべきではない。その現実は決して美しいものではないし、破壊的ですらあり、弱者に理不尽な結果をしわ寄せすることだってある。そこに憤りを覚えることも決しておかしなことではないが、そこまでで理解がとどまるとすれば、それは全体像を見ていることにはならないだろう。

 また、資本主義のもとで生まれてくる無慈悲な動きは、資本主義そのものの欠陥というよりも、現実の人の心の移ろいやすさ、いい加減さの反映だと捉えるべきものである。資本主義が人間の自由な選択を許容しているのがけしからんということもできるから、その意味では資本主義の持つ欠陥だと言えなくもないが、私たちは自分たちの自由な選択を原則として許容する社会に住みたいのか、原則として許容されない社会に住みたいのかと問われれば、大半の人たちが原則として許容する社会に住みたいと答えるだろう。自分たちの自由な選択を原則として許容する社会に住みたいのであれば、その社会が生み出す不条理には我々は付き合っていくしかないのである。いいとこ取りだけしたいというのは人間の当然の感情ではあるが、それは虫がよすぎるという諦念もあるべきではないかと思う。社会の否定的な側面をえぐり出すことも時には大切なことだが、そこで考えがストップするとすれば、その考えは成熟した大人にはふさわしくないのだ。唯物論がリアルな現実からものごとを見るという立場なのであれば、従来の左翼的思考の枠から抜け出すことが唯物論の課題ではないだろうか。
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