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左翼的思考を支える直感(3)



 左翼的思考を支える直感としてもう一つ挙げたいのは、マルクスの疎外論の鋭さだ。ただし、ここで言う「疎外」は日常的な用語としての「疎外」とはちょっと意味が違う。日常的な意味での「疎外」はのけ者にされているという意味合いで、例えば「職場で疎外感を感じている」と言えば、自分が職場の仲間の輪の中に加われずに孤独感を感じているようなイメージだろう。マルクスが使っている「疎外」はこれとは違って、人間が生み出したはずのものが、逆に人間のあり方を縛って、人間の自由を奪うようになることみたいな感じだ。つまり、人間が生み出した資本主義というシステムが人間のあり方を縛って、人間の自由を奪うように作用していると考えるのが、マルクスの言う「疎外」だ。

 資本主義においては資本主義的競争は必然だ。資本主義という原理を採用した以上、資本主義的競争に打ち勝とうと奮闘することから人間は逃れられない。資本家が搾取を行うのは資本家自身がいい暮らしをしたいと考えているからというよりも、資本蓄積を行ってなるべく競争上優位な立場を確保して生き残りを図らなければならない立場に資本家も置かれるからだ。労働者をなるべく低賃金で長時間働かせ、より多くのものをより安価に生み出せるようにし、これによって資本主義的競争に勝とうとすることを、資本家は選ばざるをえない。これによって労働者は健康的な生活を奪われることになる。それだけではない。資本家が総じて生産効率の上昇によってより大量により安価に生産しようと競争する結果として、過剰生産が現出することになる。この過剰生産が恐慌と呼ばれる破壊的な大不況の原因となり、これが過剰となった生産設備の強制廃棄に繋がり、大量の失業者を生み出すことになる。つまり、人間が自ら生み出した資本主義という社会システムに縛られることによって、人間全体を不幸に陥れていく連鎖に陥ることになるというのが、マルクスの指摘なのだ。従ってマルクスは、この疎外状況から脱却して人間が本当に自由になるためには、資本主義というシステムから離脱しなければならないと説くわけだ。

 人間が作り出したものによって人間が逆に縛られることになり、人間の自由を奪い、人間の利益を却って損ねるなんてことは、割とある話ではないかと思う。お役所の煩雑な手続きにうんざりすることもこういうことと関係するだろう。つまり、行政の公平性の確保のためには、提出書類の形式なども定式化する必要性が出てくるが、これが個別事例において常に合理的ということになるかというと、そうはならないケースも多い。そういうこともあって、お役所の融通のきかなさにイライラするなんてことがよくある。「行政の公平性の確保のため」というのは建前にすぎず、公務員の都合によって決まりができているんじゃないかとか、時代の要請に合わせて制度を見直すことをサボっているだけじゃないかなどと勘繰りたくなることもあるが、ともかく、本来は人間の利便性のために作り出したはずのものに人間が従わなければならなくなり、人間の自由が却って奪われることになっているという意味では、これは疎外だと捉えることができる。

 こうした事例に見られるように、疎外というものは何も資本主義社会に特有な話ではない。社会主義になったとしても、お役所仕事は当然残るはずで、そこでは同様の疎外が生まれることは自明だ。社会主義の方がもっと融通がきかなくなって、お役所仕事に関わる疎外は却って激しくなるかもしれない。

 マルクスは別にこうした疎外を資本主義特有だと言っているわけではないから、こんな事例を挙げたからといってマルクス批判ができたことにはならないが、資本主義だから疎外が生まれるという誤解をしている人もいるので、念のためにこんな事例を挙げておいた。疎外は決して資本主義特有のものではなく、社会制度に関わりなく、人間が集まって社会を形成している限り、逃れられずにつきまとうものだ。

 マルクスの疎外論をもう少し具体的に見ていこう。その際にマルクスが生きた19世紀にはラッダイト運動が起こったりしていることを意識すると、イメージが湧きやすい。ラッダイト運動とは、産業革命に伴って機械がどんどんと普及する中で生まれた抵抗運動だ。つまり、機械が普及することによって失業することを恐れた手工業者たちが行った機械の打ちこわし運動だ。

 産業革命が進展するまで、手工業者たちは自分の息を吹き込むようにしてひとつひとつ製品を作り上げていた。職人として、自分の作るものには誇りを持っていたことだろう。しかしながらもっと生産性の高い機械による生産が登場した時、職人たちは自分たちが作り出すものに自分たちが付けたい値段を付けられなくなった。そして機械による生産がさらに広がり、さらにその生産性も上がっていくにつれて、機械が生み出す商品の価格はもっともっと下がっていき、もはや彼らが職人として仕事を成立させることができなくなっていった。彼らは職人として生きていくことを諦め、工場で雇われて働く労働者になっていったりしたわけだ。

 しかしながら工場労働者になると、それまで一から十まで全部一人で作り上げられる職人でないとできなかった仕事が、誰でもすぐにできる単純労働の組み合わせに変えられてしまう。同じ位置に同じ部品をはめ込むことを毎日毎日延々と繰り返すような作業であれば、熟達した職人である必要は全くない。確かに誰でもできる。だが、こんな仕事が面白いわけがない。労働時間の制限が全くなかった時代には、こんな単純作業を1日16時間とかやらされる生活をさせられたりもしていた。これでは仕事の面白みなんてまるでないではないか。職人として働いていた時には自分の力でものを生み出す喜びや誇りがあっただろうが、今やそんなものはなくなったのだ。そして職人として物作りをしていた時には生み出したものは自分のものだと感じ取ることができた。だが、工場労働者となった今は自分たちが生み出したものは全て資本家のものになっていき、誰でもできる単純労働にふさわしい賃金しか彼らは手にすることができないのだ。職人として生きていた時には、注文してくれた人の顔を思い浮かべたりしながら、その人の役に立てられることを意識しながら一つ一つのものを作っていたりもした。つまり職人的な仕事を通じて他者とのつながりを意識し、その人が自分の作った作品を手にして喜ぶ姿とかもイメージできたわけだ。だが、工場労働者として生活するようになると、仕事は単に自分の生活を成り立たせるためだけのつまらないものでしかない。職人であれば、「あの人は◯◯職人で◯◯の技術はすごいんだ」とか、「この人は△△職人で△△の技術はすごいんだ」というように、それぞれの職業や技術に対するリスペクトを相互に持つことができただろうが、単純労働者になってしまってはそのような相互のリスペクトはなくなってしまう。工場で作られた安価な製品を手にした時に、買い手はそれが誰によって作られたものかなど全くイメージできない。分業体制の中で誰が作ったものだとも言えないものになってしまっているし、どこのメーカーの製品かを気にすることはあっても、誰が作ったものかなんて気にもならないだろう。こうして人間相互の結びつきというものも失われていくわけだ。

 産業革命によって生産力が格段に進歩したわけだから、それは社会の進歩だとも言えなくはないが、職人として生きる誇りや労働の喜びを奪い取り、顔が見える間柄で売買する仕組みが破壊されて人間相互の結びつきも失われてしまったとしたら、果たしてこれで人間は幸せなのだろうか。こういう問いかけをマルクスは行ったわけだ。そしてそれが新たに勃興した資本主義という制度と分かちがたく結びついているとすれば、そうした社会制度は克服されねばならないということになるだろう。こうした直観が彼の考えのベースにあることを私たちは知っておくべきだし、ヒューマニズム的な見地からこうした鋭い問題意識に共感を覚える人も多いし、私も共感を覚えてきた一人だ。

 だが、20世紀、21世紀に生きている自分から見ると、マルクスの疎外論に違和感を感じる部分もいろいろとあるのだ。

 マルクスの疎外論は第二次産業、つまり工業を中心に組み立てられているが、現代ではわずかな人数で第二次産業はまかなえるようになっており、労働の中心は第三次産業、つまり商業やサービス業にシフトしている。商業やサービス業にも資本主義的な疎外状況は当然あるし、それもまた真面目な考察の対象となりえるものだが、商業やサービス業においては顔の見える人を相手にすることが多く、工業労働者に生まれる疎外の問題をそのまま当てはめることは適当とは言い難い。商業やサービス業においても単純労働と言えるものは多いが、マルクスが想定したような工場における単純労働からすれば、苦しさの点ではそれほどでもないのが普通だろう。また労働者保護の社会制度も整ってきて、かつてのような過酷な労働ではなくなったとも言える。8時間労働がきちんと守られているかと言えば、そうではないところもあるわけだが、だが毎日14時間とか16時間働かされるような職場は少なくとも日本においてはかなりのレアケースだ。もちろん今でも信じられないような過酷な労働は存在するのだろうけれども、そういうものが発覚するとニュースとして取り上げられるほど例外的な存在になっていることにも目を向けたい。

 また工業においても、職人の姿は確かに変わったが、職人は決して消えたわけではない。鍋を作るような職人はほとんどいなくなったと言ってもいいだろうが、特殊なネジを作る職人とか、特殊な磨きができる職人とかは、工業化の進展によってむしろ多様化したとも言えるのだ。そうした世界にあっては、いまだに職人気質の気風が残されてもいる。

 また非人間的な単純労働は人間の手からロボットの手にどんどんと移されていっている。今後はAIが進化していく中で、ますます非人間的な単純労働を人間が担う世界は狭くなっていくだろう。

 マルクスが19世紀に感じた直観とは異なって、非人間的な疎外状況は21世紀においては資本主義の発展に伴って縮小して行っていると見ることができるのだ。非人間的な疎外状況は決してなくなりはしないだろうし、その中には資本主義ゆえに生み出されていると言えるものも当然あるだろうが、社会体制の根本的な変革=革命を要求するほどに疎外状況がどんどん酷くなっていくかのように捉えるのは、現実には当てはまらない。唯物論的に、つまり科学的・客観的に今の社会を眺めるとすれば、この現実は認めざるをえないだろう。この現実に対して目を瞑り、未だにとんでもない疎外状況が社会を覆い尽くし、それは資本主義が長引くほど深化しているのだというのは、空想的な観念論にすぎないのである。この現実を左翼は認めるべきなのである。

 さらに言えば、マルクスが想定するほど、現実の資本主義は競争一辺倒で他ごとを考える余裕が全くないというわけでもない。自社の利益だけでなく、社会の利益も本気で追求するような経営者も少なくないのだ。

 例えば、パナソニック(松下電器)を創業した松下幸之助は、第一次世界大戦の特需の反動がやってきて首切り合理化の嵐が吹き荒れた1920年にも、一人の従業員の首も切らなかった。1923年に関東大震災がやってきて、東京では大変な品不足が発生した際に、松下が大阪で作る製品は飛ぶように売れた。同業他社が価格を2倍・3倍に釣り上げても売れることから、そういう路線に走る中で、松下は価格を以前のまま据え置き、さらに震災で回収が難しくなった売り掛け金は半分だけいただければよいという営業に徹した。世界大恐慌の到来によって松下も過剰生産に苦しんだが、この時も一人の首切りも行わなかった。工場労働者は工場勤務を半日とし、残りの半日を販売支援に動いてもらうことでこの危機を乗り切るという手に打って出た。昭和9年に室戸台風が襲い、当時松下が建設していた新工場が壊滅的な被害を受けたときに、自らのことを脇に置いて、松下はまずは被害を受けたお得意先のところに出向き、お見舞金を手渡すことから始めた。終戦によってGHQから幸之助をはじめとする松下電器の幹部が公職追放に遭った時に、松下電器の労働組合は公職追放の解除を求める嘆願書をGHQに提出して、これを認めさせている。

 松下がこういう行動に出たのは、人の道を純粋に求めた結果であるかどうかはわからないという意見もありうるだろう。人が苦しい時に恩義を売っておけば、後でそれ以上のリターンが得られるということを狡猾に計算していたのかもしれない。だがそういう言い方をしてみて、この経営者を敢えて否定的に評価することにあまり意味があるとは私には思えない。少なくとも幸之助タイプの経営者でない方がよかったということではないだろうし、どうせ人の下で働くなら、幸之助のような人の下で働きたいと思うのは、人情でもある。

 忘れてはならないのは、幸之助をどう見ようとも、幸之助はマルクスが想定した経営者像とはまるで違う経営者だということだ。マルクスは個人の生活においてはどんなにやさしく思いやりがある人であっても、経営者としての立場に立った際には資本主義の厳しい競争原理に打ち勝つように企業の利益の最大化を図るために冷徹な行動をせざるをえない存在として描いていた。だからマルクスの理論に従えば、幸之助のような経営者は資本主義の原理の下では真っ先に淘汰されることになる経営者だということになる。だが、マルクスが淘汰の対象のように見なした人情溢れる経営者のもとに多くの従業員が自ら進んでついていこうとし、同時にまた多くの取引先からも大切にされ、松下電器の繁栄の礎となったのは間違いない。これは大いなる皮肉だろう。そして、このような単純な利益第一主義とは異なる経営を行ったのは、決して松下幸之助が例外だったというわけでもないのだ。現在のトヨタにつながる豊田佐吉も、ホンダを創業した本田宗一郎も、日本資本主義の父とも呼ばれる渋沢栄一も、決して単純な利益第一主義に走っていたわけではない。

 マルクスはマルクスが生きた当時における貧民の壮絶な暮らしぶりに心の痛みを感じ、彼らをなんとしてでも救い出せる理論を作り出さねばならないとの使命感に燃えていたのだろう。それが皮肉なことに現実を過剰に悲惨に描くことに繋がっていたのだろうと思う。マルクスは自らの見方を科学的だと言ってのけつつ、実は何とかしたいという使命感によって現実をリアルに捉える目を曇らせて、資本主義を過剰に悲惨に描いてしまったように感じられるのだ。

 マルクスの著作を読むと、その激しさにたじろぎを覚えることがよくある。そのたじろぎを、私は現実を甘く見ている自分の弱さに起因するものだと若い頃は考えていたが、今となっては健全な常識的な見方との乖離がそこにあるせいだと思えるようになった。

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