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社会主義思想が浸透したアメリカ(3)



 これまで見てきたように、フランクリン・ルーズベルトは厳密な意味では共産主義者ではなかったかもしれないが、共産主義的な考え方、つまり資本主義では個別企業が社会全体の計画性など全く考えずにバラバラに動くことによって問題を生じさせるので、個別企業の自由気ままな経済活動を許してはならないという考えに、かなり共感していたことは間違いないだろう。そしてそれは彼の周りのスタッフの人選にも当然大きな影響を与えている。ルーズベルト政権全体を眺めるのは大変なので、ここでは農政部門に絞ってどのような人選がなされていったかをこれから概観したい。

 以前に取り上げた農業調整法は第1期・第2期ルーズベルト政権下で農務長官だったヘンリー・ウォレス(第3期ルーズベルト政権下では副大統領を勤め、その後のトルーマン政権下で商務長官にもなっている)と農務次官補だったレックスフォード・タグウェルのもとで策定された。つまりルーズベルトはヘンリー・ウォレスとレックスフォード・タグウェルを農政を扱うトップ2として選んだわけだ。

 農務次官補だったタグウェルはペンシルバニア大学ウォートン校の学生だった時に左翼教授のスコット・ニアリングの影響を受けた、経済計画の専門家だった。スコット・ニアリングは「労働者の大学」とか「社会主義の学校」とも呼ばれた社会科学ランド校(Rand School of Social Science)でも教鞭を執っていた。この教授の教えを受け、経済計画の専門家だったということから、タグウェルがどれほど左翼的であったかは推察できるだろう。そして計画的な生産調整(減反)によって価格支持を図るというタグウェルの考え方に沿った農業政策がニューディール政策では展開された。なお、タグウェルはニューディール政策の政策ブレイン(ブレイン・トラスト)のメンバーとしてルーズベルトに選ばれた3人のうちの1人であり、農業政策だけに止まらず、経済政策全般に影響を及ぼした。(なお、ブレイン・トラスト(ルーズベルトの政策ブレイン集団)は当初は3人で、後に7人に拡大された。)
 
 農務長官だったヘンリー・ウォレスも親ソ的な発言を繰り返していることで知られる左翼人士である。ソ連の集団農場制度に大変感銘を受けたと言われ、実際に農業調整局の幹部だったジョージ・ピークは農業調整局が集団農場制を志向する組織になったことを批判して辞職している。

 以下は第二次世界大戦終結後の1946年9月に、ニューヨークのマジソンスクウェアガーデンで行われたヘンリー・ウォレスの演説の一部を和訳したものだが、これを見てもウォレスがいかに親ソ的であったかが伺われるだろう。

 「永続的な平和を実現するには、ロシア人気質がどのように形成されたかを入念に研究しなければならない。ロシア人気質はモンゴルやドイツやポーランドやスウェーデンやフランスからの侵略を受けることによって、情報を与えずに恐怖を与え力づくで支配するツァーリ(ロシア皇帝)によって、(ロシア革命後の)1919年から1921年にかけての時期のイギリスやフランスやアメリカの内政干渉によって、ヨーロッパとアジアに挟まれた広大なロシアの地勢的な位置によって、肥沃な大地でありながら厳しい気候であるために生まれたバイタリティーによって築かれたものなのである。【中略】アメリカ人が頑なになればなるほど、ロシア人も頑なになるだろう。【中略】アメリカの主要な目的が米兵の命を犠牲にしてでも大英帝国を助けたり中近東の石油を手に入れたりすることでもないのだということをロシアが理解すれば、ロシアとの間で協力関係を打ち立てられると私は信じている。【中略】平和的友好的競争のもとにあれば、ロシア的な世界とアメリカ的な世界は徐々に似たようなものになっていくだろう。ロシアは個人の自由をどんどん認めていかざるをえなくなり、アメリカも社会経済的な公正さに注力していくことになろう。

 ウォレスによれば、アメリカ人から見て理解しがたいソビエト・ロシアのあり方は、ソビエト・ロシアが共産主義独裁国家だからではなく、ロシアの過酷な歴史や地理的条件によって生み出されてきたものだとされるわけだ。そしてそのような理解をアメリカは持つべきで、アメリカの側からロシアに敵対する姿勢を捨てて歩み寄るなら、ロシアは柔軟になっていくものだというわけだ。恐ろしいほど親ソ的、容共的であることがわかるだろう。1945年末にはソ連のスパイ網がアメリカの政府組織の中に張り巡らされていたことが一部マスコミの報道で少しずつ知られるようになってきていて、1946年にはトルーマン政権自体もこの問題に対する対処に苦慮するようになっていたから、ウォレスも当然こうしたことを知っていたはずである。そういう中でもウォレスがこのような演説を行っていたという点は見逃せないところだ。

なお、ウォレスは自分が大統領になったら、ローレンス・ダガンを国務長官(日本の外務大臣)に据えるつもりだと話していたが、ダガンはソ連のスパイだったことを後に自白したほど左翼思想に染まっていた人だ。またニューディール政策の農業政策を取り仕切る農業調整局が設置された時に、ウォレスは左翼的考えを持ったリー・プレスマンをこの農業調整局の要職に就けている。そしてリー・プレスマンは自分と同じような考えを持っていたハーバードロースクール(ハーバード大学法科大学院)時代の友人のアルジャー・ヒスやネイサン・ウィットを農業調整局に招き寄せた。なお、彼らは全員アメリカ共産党の地下党員になっている。

 農業調整局にはアメリカ共産党の創設者の息子のハロルド・ウェアも入り込んでいた。ハロルド・ウェアはロシア革命後のロシアにずっと住んでいて、共産党のエリートを養成する国際レーニン学校に3年ほど通ったこともあり、レーニンやスターリンからたびたびお褒めをいただいたこともあるバリバリの共産主義者だった。ウェアの奥さんも同様にロシア暮らしを続けていて、ハロルド・ウェアと同様に国際レーニン学校に通っていたことがあり、その後ソ連国内で発行されていたソ連礼賛の月刊誌ソビエト・ロシア・トゥデイの編集者にもなっている女性だ。ウェアはアメリカに帰国後、アメリカの農業政策に影響力を与える意図もあって、Facts for Farmersという集団農場制を讃えるような雑誌を創刊したが、こうした意図が実って農業調整局の政策のコンサルタントとして採用された。農務長官のウォレスがソ連型の集団農場制に感銘を受けていたとすれば、彼が同じような考え方を持つウェアに着目したのは、ある意味で当然だったのかもしれない。

 筋金入りの共産主義者であるハロルド・ウェアは省庁横断的な政府内の共産主義者の秘密グループであるウェアグループ(ウェアが主導したからウェアグループと呼ばれている)のリーダーとして働いた。こんなあからさまな共産主義者がアメリカ政府内部に易々と侵入できたことは、ルーズベルト政権期のアメリカが共産主義者に対していかに甘くなっていたかを端的に示す例だともいえよう。

 尤も別の見方をすれば、ニューディール政策という、資本主義に大胆な統制を加えようとする政策に左翼的な考えを持つ人たちが興味を示すのは当然のことでもある。従って、政権側が共産主義に脅威を感じていなかったのであれば、左翼的な考えを持つ人たちがどんどんと政権内部に吸い寄せされていってもおかしなことではないだろう。そして政権内に入った左翼が自分と考えの近い仲間を呼び寄せていけば、左翼的な色彩はなお強まっていくとも言える。こうしてルーズベルト政権はどんどんと左翼色の強い政権となっていった。

 ついでにルーズベルトの側近中の側近として3人の人物を取り上げておきたい。一人目はハリー・ホプキンスだ。ホプキンスと一緒にルーズベルトの演説原稿を書いていたロバート・シャーウッドによれば、ホプキンスは「世界最大の戦争の最も危機的な時期」に「合法的な官職もなければ自分のデスクも無かった」けれども、「米国政府のうちで二番目に重要な人物」だったそうだ。つまり、ホプキンスは実質的にはナンバー2だったということであり、それは大統領に最も影響力を行使できる立場にあったということになるが、彼はソ連のエージェントであった。

 二人目はアルジャー・ヒスである。新たに国連を創設し、その初代理事長に就任したいというルーズベルトの願いのために大変な努力を払った、ルーズベルトの側近である。国連憲章の草案はヒスが作り上げたもので、サンフランシスコ国連創設総会事務総長にも就任している。ヒスはホプキンスとともにヤルタ会談に同行し、千島列島をソ連に与えるなどの密約をソ連との間で交わすのに重要な役割を果たした。このアルジャー・ヒスはアメリカ共産党の地下党員であり、やはりソ連のエージェントだったことが判明している。

 三人目はハリー・デクスター・ホワイトだ。ホワイトは財務省内では財務大臣に次ぐナンバー2である財務次官補だったが、財務大臣のモーゲンソーはホワイトに完全に頼り切っていたから、実質的には財務省のトップと言ってもいい立場だった。ホワイトはモーゲンソーと同じユダヤ人であったことから、モーゲンソーに特に気に入られるようになったとも言われるが、単に同じユダヤ人だったからというだけで重用されたわけではない。ホワイトはIMF体制とも呼ばれる戦後のドル基軸の通貨体制を築いたことでも知られる、非常に優秀な頭脳を持つ経済学者でもあった。ホワイトはロシアで経済計画を学ぶ研究職に就きたいと思い、ロシア語の勉強に勤しんだこともあるほど、統制経済に関心を持っていた。

 ホワイトが活躍したのは財務省の中だけではない。例えば、アメリカが日本に最後通牒として突きつけた文書は、当時の国務長官(日本の外務大臣に相当)の名前をとって「ハル・ノート」と呼ばれているが、この「ハル・ノート」を実際に書いたのは財務次官補のホワイトだった。財務省の官僚がどういう権限で外交文書を作成できるのかは不思議なところだが、国務省(日本の外務省に相当)の頭越しにルーズベルト大統領に外交問題の政策提言さえ行える力がホワイトには認められていたわけだ。このようにホワイトはルーズベルト大統領から特別な信認を得ていたのだが、ホワイトもソ連のエージェントであったことがわかっている。アメリカ政府内部のスパイ網から伝わってきた情報を取りまとめてソ連に送っていたウィトカー・チェンバースによれば、ホワイトはスパイとして活動するスリルをかなり楽しんでいたようだ。なお、国務省内で対日交渉案としてまとめられていた穏健な「ハル・ノート」も用意されていたのだが、これが実際に提起されていれば日本に受諾されてしまうことになり、戦争には巻き込めなかっただろう。日本を開戦に追い込むために、絶対に日本が呑めない条件を突きつけたのがホワイト案の「ハル・ノート」であり、これを採用させるための様々な工作をソ連は行って実現させたわけだ。絶対に日本が呑めない条件とは、北部仏印(北ベトナム)のみならず、中国大陸からの完全撤兵であった。これは事実上、中国大陸における日本の権益を全て放棄することを求める内容だった。

 第二次世界大戦後のドイツにおいては工業を徹底的に解体し、ドイツを農業国に押しとどめておこうとする、いわゆるモーゲンソープランを具体的に策定したのもホワイトだ。これに基づいて、戦後のドイツは鋳鉄・鉄鋼・化学品・工作機械・ラジオ・重機・電気機器・自動車などの生産まで禁止された。ユダヤ人であるホワイトはユダヤ人迫害を行うヒトラー政権に対する嫌悪感からこうした苛烈なドイツの戦後処理案を策定したと言われるが、ドイツの農業国化はドイツの国力をできるかぎり削ぎたいソ連の思惑と一致していたことを軽視するべきではない。また過酷な条件に置かれれば、それだけ共産主義革命が起こる可能性が広がることになる。このこともホワイトは考えていたであろう。

 周辺国に工業製品を販売することで農産物を輸入して国民を養っていたドイツから工業生産を取り上げたら、ドイツは食料の輸入ができなくなる。化学肥料の製造まで禁じられていたから、ドイツの周辺国においても農業の生産性が著しく低下し、輸出余力も失われていた。しかもドイツは輸入に必要な貨物船まで接収されていた。おまけに東ヨーロッパを追われたドイツ民族の人たちがドイツ国内にどんどん入ってきたから、ドイツの人口は格段に増えた。人口は増えて食料の輸入が止まればどういう事態が起こるかは明らかだろう。大量の餓死である。ジェイムズ・バックが書いた「罪と情け(Crimes and Mercies)」によれば、この時期のドイツの餓死者数はドイツ国内の民間人が570万人、東欧から戻ったドイツ系移民が250万人、戦争捕虜110万人で、合計で900万人を超えるとされる。バックによれば、実際の餓死者数はこれをはるかに上回るはずだという。民間団体のドイツの食糧支援も禁止され、戦争捕虜への食料支援さえもが禁止された。ナチスドイツのユダヤ人ホロコーストの犠牲者数が約600万人とされているから、それを上回る餓死者がドイツにおいて生み出されたことになる。

 さらにここで確認したいのは、こうした社会的な大混乱を引き起こすことは共産主義革命につながる「善」だと考えるのが共産主義者の考え方だということだ。こういう意味も含めて、ルーズベルトの主要な三人の側近がソ連のエージェントであったということの重みを、私たちは忘れるべきではないだろう。

 なお、ドイツを視察してこの惨状を目の当たりにしたフーバー元大統領が政策の根本的な変更をトルーマン大統領に進言したことから状況は一気に変わることとなった。これがいわゆるマーシャルプランの策定へとつながるわけである。

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コメント

ご挨拶です。今後意見交換させてください。

短足おじさんさまに、ぜひ見て欲しいブログがあります。

ちりちゃんです。
今回、ご挨拶。
今後、意見交換させてください。

ハンネ長いので、呼び方、「短足さま」にしますね。
(私のハンネだけど、ここでは、たしか「ナノ」だったけかな。違うハンネでだしてましたけど、思うとこあって、一番広がってるものに変えます。短足さまのことだから、このハンネでググりますよね。あと、短足さんは、私のヒッカケFC2サイトにも、何回か来ています。アハです。)


自己紹介はここまでにして、マルクス、この観点からの分析もあります。時代背景。

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18世紀から19世紀は科学上の発見が相次いでものの見方に革新が生まれていた時代だ。19世紀はドルトンが原子説を唱え、アボガドロが分子説を唱え、メンデレーエフが元素の周期表を作り、ダーウィンが「種の起源」を著したような時代だ。新しく発達してきた科学的なモノの見方に非常に高い信頼が寄せられるようになった時代だ。マルクスは科学的・合理的な思考を自然科学だけの思考とせずに、哲学や社会科学にも適応すべきだと考えた。

この観点、この方面からの分析、ビビビときた。短足さんも、キット、ムムっとなると思ってます。

長いけど、全文、あげます。
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ここで共産主義がどのような背景で生まれ、急速に広がることになったのかについて、簡単に眺めてみよう。
まず知ってもらいたいのは、共産主義はもともとは19世紀という歴史性を持った考えだということだ。(ここで言う共産主義とは、カール・マルクスによって築かれた、いわゆるマルクス主義のことだ。)
マルクスが共産主義の理論を打ち立てた19世紀というのは、自然科学上の発見が本格的な近代工業の発展に大きく寄与するようになり、人々の暮らしにも大変容をもたらすようになった時代だ。近代的な工場が生み出され、技術革新によって工業の生産性がどんどんと高まっていった。これによって時代の波にうまく乗った経営者が大金持ちになる一方で、そこで働く労働者には悲惨な現実が待っていた。
ではその生活実態とは具体的にはどのようなものだったのか。カール・マルクスの盟友のフリードリヒ・エンゲルスは「イギリスにおける労働者階級の状態」という本を書いているが、その中で8〜9歳の子供たちに食事時間や休憩時間を含めずに1日14時間から16時間の労働をさせているとか、中には5〜6歳の子供でも雇う場合があるとか、連続で30時間とか40時間働かせる実例もあるとか、9畳程度の広さの中で夫婦と子供併せて6〜7人が暮らしているということが珍しくないとか、凄まじい話をたくさん登場させている。
ここで理解をしておきたいのは、こうした現実に対して当時の社会科学は全く無力であったであったということだ。例えば当時の経済学の主流派の考えは、経済は神の見えざる手によって自動的に調節されるようにできているから、国家が経済に介入するのは最小限度に留めるべきだというものだった。ものすごい勢いで大金持ちになっていく資本家がいる一方で、絶望的なほど悲惨な暮らしを強いられる多数の労働者がいるとしても、それは市場の需給関係を反映したもの=市場の最適配分の結果でしかないと考えるわけだ。過酷な労働をしたくなければ仕事を辞めるのは自由なんだから文句を言うのは筋違いではないかと考えるわけだ。もっと高い給料を支払わせるべきだと言っても、高い給料では雇おうとする資本家の数は減ることになるから、そんなことをしたら失業の憂き目に遭う労働者が増えることになる。それでもいいのかというのだ。
現実にとても見過ごせない非人間的な状況が広がっていながら、この状況を解決できる理論が当時にはなかったわけだ。そして従来の理論によれば、これは最適配分の結果、つまり経済学的にはベストの状態なのだということになる。そんな社会問題を解決できない理論を学問と呼んでいいのか…これがマルクスの問題意識だ。マルクスはこの問題を解決する理論を自分で編み出して根本的な解決を図りたいと思い、研究に没頭する。そして哲学・歴史学・経済学・政治学を横断する壮大な学問体系を築き上げた。
18世紀から19世紀は科学上の発見が相次いでものの見方に革新が生まれていた時代だ。19世紀はドルトンが原子説を唱え、アボガドロが分子説を唱え、メンデレーエフが元素の周期表を作り、ダーウィンが「種の起源」を著したような時代だ。新しく発達してきた科学的なモノの見方に非常に高い信頼が寄せられるようになった時代だ。マルクスは科学的・合理的な思考を自然科学だけの思考とせずに、哲学や社会科学にも適応すべきだと考えた。旧約聖書には神は自らの姿に似せて人間を作ったと書かれているが、実は人間が自らの姿に似せて神を作ったのが実際ではないか。神は人間の想像が生み出したものにすぎない。しかも人間の考えというものは、時代や環境を超越したものではなく、むしろ時代や環境に大きく規定されているものでもある。世の中が動けば考え方も変わり、その考え方の変化が社会にも影響を及ぼしていく。そういう様々な変化の中でぶつかり合う動きも様々あるわけだが、そのぶつかり合いが押し合いへし合いしながら新たな変化を作り出していくと捉えるのが現実的な捉え方ではないか。彼が考えた弁証法的唯物論とは、単純化すればこのような考え方だ。
彼はこのものの見方を歴史の流れを捉えるところにも応用した。それが史的唯物論と呼ばれている。この史的唯物論を捉えるのに大切な概念として、生産手段と生産関係というものがあるので、まずはそれから理解しよう。
人間が生産活動を行うためには、土地と資本と労働が必要になる。例えば農業においては、農地(土地)において種や農機具(資本)を用いて人間が耕作(労働)を行うことで農産物ができるわけだ。工業においては、工場(土地)に据えられた機械や原材料(資本)を人間が操作(労働)することで工業製品ができるわけだ。このうち労働は実際に働く人間からは切り離せないが、土地や資本は実際に働く人の所有である必要はない。地主の土地で地主の持つ農機具を借りながら農作業を行う小作人もいるわけだし、工場労働者は会社の土地や機械を所有しているわけではない。このような労働以外の2つの要素(つまり、土地と資本)のことを生産手段と呼ぶ。
これに対して生産関係とは、生産が行われる上において結ばれている人間相互の関係のことだ。これは単純に資本家が労働者を支配するのが資本主義のあり方だという話だけではない。資本主義においてモノの生産を効率的にするためには、分業が高度に発達するというところもマルクスは見ている。これは1つの社内において分業がどんどん進んでいくということだけを意味するわけではない。様々な会社が分業することによってものづくりが成り立ち、その複雑さはどんどんと高度化していく。例えばトヨタの車の生産に関わっている部品メーカーは何百社か何千社かあるはずで、そうした会社の共同作業によって初めてトヨタ車が完成車として出荷できるようになっている。このように分業のレベルが複雑・高度化していくことを生産関係の社会化と呼んでいる。
近代資本主義においては生産手段は資本家の私的所有のままであるのに対して、生産関係は社会化されている。つまり、どのくらいの生産量が好ましいかは生産手段を所有する資本家が個別企業ごとに個別バラバラに勝手な見通しを立てて行うのに対して、現実の生産関係は社会化された高度な分業体制になっているので、そこに矛盾があるというのだ。1種類の部品が不足していても完成品はできないわけだが、どの部品をどの数量を作るのかは各社がバラバラに判断するから、不足する部品が出てくることもありうるだろう。各企業は社会全体の需要見通しに合わせて生産しているわけではないので、見通しの甘さから過剰生産に陥ることだって起こるだろう。
では生産手段の所有状況と社会化された生産関係との矛盾はどのようにすれば解消するのか。それは各社ごとにバラバラに仕事をしてはうまくいかないほど高度に分業した生産関係に合わせた生産手段の所有関係に移行すればよいとマルクスは考えた。すなわち、生産手段の所有を私的所有から公的所有に変換すればよい。社会的に求められる需要量に合わせた生産量を計算し、それをみんなで分業するとすれば、生産の過不足なくバランスの取れた経済が実現できるはずだ。そこには支配―被支配の関係はなく、社会全員が平等な世の中が生まれる。過剰労働や不当なプレッシャーから解放され、人間が人間らしく生きられる条件が初めて実現できる。これが社会主義・共産主義だ。
歴史においては傑出した英雄が出てくることによってある国が突然強くなることもあるし、愚かな指導者によって国が衰退し滅ぶこともあり、意外な合従連衡もあれば裏切りもあって、表面的には固定された筋書きも法則性も感じられないドラマに溢れている。だが生産手段と生産関係から規定される経済システムという見地から考察すれば、世界はいずれも原始共産制→古代奴隷制→中世封建制→近代資本主義という歩みをしてきたのだとマルクスは規定する。つまり、このような物質的基礎に基づいて歴史を眺めるならば、そこには個々人の思惑といったものを超えて歴史の底流に流れる法則性のようなものが浮かび上がってくるというわけだ。そしてこれまでの歴史がこのような科学的な法則性に従って進んできたのであるなら、今後の歴史もまた同じ法則性に貫かれて進んでいくはずであるとマルクスは考えた。すなわち、資本主義における生産手段と生産関係の矛盾(生産手段の私的所有と生産関係の社会化との矛盾)から社会主義・共産主義へと社会が移っていくのは歴史的な必然なのだというわけだ。このようなモノの見方を、唯物論を歴史に応用したということで、史的唯物論という。
さて、ここでよく考えてもらいたい。一方には勃興する資本主義の波にうまく乗って大金持ちになる資本家がいる。もう一方には劣悪な労働条件のもとで1日に16時間とか働かされている人達がいる。その中には子どもたちも多数含まれており、そういう過酷な環境で短い生涯を閉じざるをえないことも多い現実があるわけだ。仮に自分がたまたま運良く裕福な家庭に生まれ落ちたとしても、あまりに理不尽な環境で生きていかなければならない膨大な貧民たちの存在を知れば、そこに胸を痛めるのは自然なことではないだろうか。そして貧民たちの過酷な現実に激しく心を痛めている純真な人なら、彼らをそんな現実から救い出すような学説に触れることがあれば、心が鷲掴みされることは大いにあるだろう。
しかもこの学説は信じるものに陶酔感を与える。この理論が指し示す方向に自分の生き方を重ねていけば、自分は人間の歴史を進歩の方向に推し進める一翼を担うことができるのだ。階級差別のない真に平等な世界を切り開くことの一助となることができるとしたら、人類史においてこんなに輝かしいことはないだろう。どんな困難があっても、どんな弾圧を受けようとも、屈しないで戦い抜くとすれば、それこそ人類に貢献する究極の生き方ではないか。
そもそもマルクス自身がもともと裕福な家庭に生まれ育ちながら、貧しい人たちを救い出す学説を完成させ、またその学説に基づいて世の中を変えることに没頭し、貧苦にあえぐ生活に飛び込んでいったのだ。貧乏生活の中で我が子を次々と亡くしていくのだが、その子たちを入れる棺を買うお金もなかったと言われている。
本来なら単なる一学説にすぎないはずの共産主義が急速にエリート層に浸透していった背景には、あまりに過酷な暮らしを強いられている貧しい人たちを救い出すことを目的として生み出された理論が共産主義しかなかったという事情があるのだ。貧苦に喘ぎながら理論を完成させていったマルクスの殉教者を思わせるような姿にも感動がある。この理論を実践することによって人類を前進させる歴史的な役割を果たせるのだという確信が、純真な若者の心を捉えて離さない魅力であったことを、ぜひ理解してもらいたいのだ。
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このサイトビリビリしている、私なのですが、ぜひ、短足さんも、ご覧になっていただけないかなと思う次第です。
もちろん、短足さんの観点、具体的数値・・・etcも、ビリビリしています。
タイアップできないかな。すぐには、無理だけど。

岐路に立つ日本を考える
http://kironitatsu.blog.fc2.com/
・・・最近、更新が遅ぎみ。リアルでは、いろいろあると想定。

長くなったけど、全部を読んでいただいたとしたら、
ありがとうございました。


Re: ご挨拶です。今後意見交換させてください。

ちりちゃん、コメントありがとうございます。
ただし、私は短足おじさまではありません。
ちりちゃんは間違ったブログに投稿してしまったようですね ^ ^;

ほう!

レスありがとうございます。
もうですか・・・。アハです。

私の作戦行動があるのです。
アハです。

朝香豊って、面白いかもですね。
この意味、ワカリマスか?

私の何人かです。


ちりちゃん、コメントありがとうございます。
ただし、私は短足おじさまではありません。
ちりちゃんは間違ったブログに投稿してしまったよ
うですね ^ ^;

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