FC2ブログ

記事一覧

左翼思想を超えて



 現代において流布している思想潮流の主流派として近代批判という流れがある。ここでいう「近代」とは、封建制度にかわって出現した資本主義社会のことだ。近代になって成立し、封建領主に代わってブルジョワ市民が主人公となっている社会だという意味合いから、「近代市民社会」のように呼ぶこともある。機械制工業が広がり、こうした産業化に伴って都市が拡大し変容し、家族や人間付き合いのあり方も封建社会の時のあり方と大きく変わってきて以降の時代をイメージすることが多い。近代批判とは、こうした近代という時代に現れた問題点を指摘する試みだと思えばよい。

 ベタな近代批判の場合だと、その論の流れはざっと以下のような感じだと思えばよい。

 近代資本主義社会においては科学技術が大切にされ、自由を最大価値に置く個人主義が広がり、自由競争こそが進歩をもたらすという考えが一般化し、大量生産・大量消費の社会を作り出すことで環境破壊が進んでいった。だが、科学技術や効率性が重視されることによって無視されることになる人間的価値があるのではないか。個人主義が当たり前とされる中で失われていく社会的な絆を無視することは人間性の否定ではないか。むき出しの自由競争が最適なものを作り出すというのは幻想ではないのか。産業化のために自然環境が破壊されるのはよくないのではないか…。こういった形で近代の負の側面を問いただすのが近代批判だ。上記は近代批判のベタなパターンでしかないが、こういう見方は割と世の中に普及していると思われるのではないかと思う。現実の近代批判はもっと幅が広いのだが、ここではものすごく単純化して話していると考えてもらいたい。

 近代批判においては普通はマルクスの名前も出てこなければ、社会主義・共産主義といった言葉も出てこないけれども、マルクスの共産主義思想が全世界的に莫大な影響を与えた名残が、今なお学術界には脈々と受け継がれているように感じられる。実際、近代批判の源流はマルクスの疎外論にあると言っても過言ではないと、私は思っている。

 マルクスの疎外論は具体的には実に多岐にわたるのだが、ここでは一例として近代の市民社会で成立する個人の自由に対する批判的な解釈を取り上げてみよう。

 人間は本来は互いを支え合う存在であるのに、近代の市民社会はこの支え合いの紐帯を断ち切ってしまい、各人が個別利益のために生きるようになっている。要するに、自分の経済的な利益が有利になることが一番で、公的な利益はあまり顧みられなくなっているのだ。近代の市民社会で成立する個人の自由とは、他者に害悪をもたらさない限り何をやってもよいとするもので、一見すると当然のように思われる。だが、各人の個別利益を追求できる自由を認めて公的な利益をないがしろにすることは果たして正しいことなのか。

 このようにして、近代市民社会(資本主義社会)が当たり前のように認めている「自由」を敢えて否定的に捉えた上で、人間どうしの支え合いの紐帯を取り戻すことが真の人間解放なのだと問いかけるのがマルクスの立論である。近代市民社会が生み出し、そこに生きる人々が当たり前として受け取っているものを批判するのだから、まさに典型的な近代批判を展開していることがわかるだろう。

 現代社会において近代批判を繰り出す現代思想家たちは特に共産主義を標榜しているわけではない。社会では常識的に認められていること(例えば「自由」「人権」「理性」など)を敢えて批判的に捉えてみせることは知的に高度な営みだと感じられやすく、こうしたものを学術界が好みやすいということがもともとあるだけで、共産主義とかはあまり意識していない論者も多いだろうと思う。それでもそこで批判されているのは、資本主義社会を成立させている「近代」と呼ばれる社会的な制度の持つ否定的な側面であり、実はマルクスとその視点には大差ないのである。そしてこれはかつては学術界をマルクス主義が席巻したことと無関係だとは言えないと私は思っている。マルクス主義の強い影響力を受けた教授が次世代の教員として自分にとって可愛いと感じられる弟子を引き立てていくことにより、左翼リベラル的な思想傾向は現代の大学でも主流派となっていると考えられるからだ。

 近代批判を展開する人たちは、近代が成立することによって生まれているメリットを正当には評価していないのが通例だ。例えば現代では世の中に出回る商品は種類も豊富だし、価格も安いのが普通だ。グレープフルーツ1つを取ってみても、カルフォルニア産、フロリダ産、メキシコ産、南アフリカ産、イスラエル産など、日本から凄まじく遠いものが運ばれてきて、ホワイト、ルビー、スタールビー、スウィーティーなどいろんな品種のものがあり、品質もたいていは悪くない。それなのに1個100円程度で日本のスーパーマーケットで売られていたりする。驚くのは、この値段で農家も、輸入商社も、輸送業者も、スーパーマーケットも利益を出していることだ。いろんな種類の品質のよいものを地球の裏側からわざわざ運んできていながら、どうやって実現しているのか信じられないくらいの低価格で販売している。各人が個別利益のために生きることを許す資本主義システムにおいて、こんな見事なことが起こっているのだ。

 個別利益が認められていると言っても、個別利益は無制限に実現できるものではなく、実際には競争原理が働く中で効率化を通じた低価格化への圧力を受け、その中で実現するだけのことにすぎない。つまり適正な競争原理が働いているなら、実現できる個別利益は厳しく抑制される社会的な仕組みがあるわけだ。言ってみれば、各人が個別利益を求めて厳しい競争を行うことで、圧倒的な低価格という公的な利益を生み出しているとも言える。こうした公的な利益(低価格)が実現される実際の仕組みを近代批判の批評家がどこまで真面目に考えているかは疑問だ。

 念のために言っておくが、私が上記で述べたような価格競争についてはマルクス自身が資本論などで解説していることでもあって、別段新しいことではない。ただ、マルクスがこうした価格競争を主として労働者に対して様々な負担を生み出す源という視点から捉えていたのに対して、私はそれが圧倒的な低価格という公的利益を生み出すものだという肯定的評価をマルクスよりずっと強く意識しているところが違っている。そしてマルクスが生きた時代とは違って、現代においてはこの圧倒的な低価格が労働者に悲惨をもたらすレベルの搾取によって成り立っている側面は随分小さくなっていると考えたほうがいいのではないかと思う。

 先ほどあげたグレープフルーツの話で考えれば、カルフォルニアの農家が不当な安値に苦しめられているわけではない。そのグレープフルーツを輸入している商社の社員が安月給に苦しめられているわけでもないだろう。商船三井のような海運業者にしても、割と給料は高い業種ではないかと思う。スーパーマーケットにしても、これで利益が挙げられると考えて販売しているはずだ。どこかにとんでもないしわ寄せがなされているのではと考えたくなるほどの低価格なのに、そうなっていなくても成り立つほどの生産性の高さが実現しているのが実際なのである。

 こう言うと、スーパーのパートタイマーの時給はまだまだ低いとか、商社マンとかにしてもそれなりの給料はもらっていても長時間労働に苦しんでいるんじゃないかとか、商船三井だって船員は日本人じゃなくて低賃金の外国人になっているのだとか、色々と反論もあるだろうと思う。そしてそれぞれにも一理はあるだろうが、ただもう一方でそうした問題もより高い生産性が実現することで解消されていくという見通しが立てられるというところに着目してもらいたいのだ。

 近代が私たちにもたらしている多大なメリットを正当に評価しながらの近代批判であれば意味はあるのだが、現代思想家たちの間では近代の持つメリットを正当に評価しようという試みはまず見かけない。つまり、本来はニュートラルであるべき思想家たちの頭の中は、実際には現代資本主義国家や近代社会というものを悪だとみなす先入観がまずあると言わざるをえず、ここにマルクス主義に由来する学術界の伝統の影響があるのではないかと感じられるわけだ。

 マルクスが唱えた理想郷とは、社会を構成する各人が自己利益以上に公的な利益を大切にし、それによって社会全体が善の方向に進んでいく社会だ。その中では「各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件となるような一つの協同社会」が実現するとされる。これを実現するために、マルクスは資本主義という自己利益に基づいて動く社会をぶち壊さなければならないと考え、社会主義に取って代わられる必要があると考えた。だが、社会主義が実現してもマルクスの理想郷は実現しないことはすでに解説した通りだ。

 これに対して私は、資本主義を革命によって打ち倒すことによってではなく、資本主義社会のもとで生産性をさらに上昇させる中で、その理想郷の実現の方向が見えてくるものだと考える。非人間的な単純労働が機械やAIによってどんどんと代替されるようになれば、生産性は今よりも格段に上昇していくことになり、コストはさらに低下して、販売価格への低下圧力はさらに高まることになる。こういう中で貧困の問題が事実上解消される社会も展望できるわけである。

 個々人が非人間的労働に従事する必要性がなくなり、個別利益にこだわらなくてもそれなりの生活が実現できるようになっていく中で、ようやく人は個別利益を脇に置いてシトワイヤン(公益性を善悪判断の中心に据える市民)として行動しやすくなる。シトワイヤンによる冷静な話し合いができる条件が整えば、マルクスが描いた理想社会が実現するとは言えないだろうか。

 マルクスが理想とした社会は、資本主義を否定し、そこで引き起こされる過酷な競争にストップをかけ、弱者保護の見地からゆるい労働密度を許していくことによって実現するものではないのである。逆に厳しい競争条件を働かせて社会全体の生産性・効率性をますます引き上げることによって、その実現性が見えてくるものなのだ。

 AI化の進展によって大量の失業者が生まれることを懸念する向きもあるが、これに対する解決策を人間は見つけて行くことに対して、私は割と楽観的である。

 農業の生産性が低かった段階においては、ほとんどの人が農業に関わることで生活せざるをえなかった。しかしながら農業の生産性が上がっていけば、農業に従事しなければならない人たちの数はどんどん減少していく。アメリカは世界最高レベルの農業大国であるが、実は農業人口は国民全体の1.7%程度にすぎず、残りは他産業に従事しているのが実際だ。そこまでの農業の生産性の向上が実現しているから、安価なグレープフルーツの生産も可能となっているわけである。

 農業生産からあぶれた人口は工業に移動し、生産性の向上によって工業でも吸収できなくなった人口はサービス業が吸収していった。要するに第一次産業から第二次産業へ、第二次産業から第三次産業へと人口が移動していったわけだ。そういう中で新しいサービス業が生まれて広がっていく。例えばエステサロンという商売が誕生したのは20世紀に入ってからのことだが、価格が低下していく中で徐々に庶民の間でも普及するようになり、今や一つの産業となった。最近は仕事としてコーチングをやっているという人に出会うことが増えたが、こうした仕事も今後ますます広がっていくのだろう。さらに言えば、私の頭では描くことのできないような新しい仕事も続々と生み出されていき、その中にはエステサロンのような一つの産業にまで成長するものもきっと出てくることだろう。生産性の向上が新たな仕事、新たな産業を生み出していくのである。

 また、生産性が高まれば、ワークシェアリングの促進にもつながると思われる。例えば、1日の労働時間が6時間で週3日休みになるといった動きが生まれてくるかもしれない。生産性の向上によってライフワークバランスが大きく変わっていく現実的な可能性が広がるわけだ。

 このように見た時に、共産主義の犯罪性がますます明白になる。私たちの生活水準は社会全体の生産性の高さによって規定されるのに、共産主義は弱者の保護を錦の御旗に掲げながら、生産性を高めることにことごとく抵抗してきたと言えるからだ。

 資本主義の黎明期に企業が労働者を奴隷のように酷使したのは事実だし、その酷さが共産主義運動を生み出したというところは見ておかなければならない。そして共産主義運動が高まる中で必要な労働者保護行政が行われるようになったことにも深い意味がある。経営者の倫理性だけに任せていては、労働者の酷使はなくならないのも実際であり、その点ではこうした保護行政が行われるようになったことは健全な資本主義の発達にとって重要なことでもあっただろう。

 だが、労働者保護・弱者保護は行き過ぎると依存的な人間ばかりになってしまい、生産性が上がっていかないということが普通に起こるわけだ。

 例えば1970年代に国鉄(日本国有鉄道…JRの民営化される前の国有企業)などでの低い生産性を改善しようという運動(生産性向上運動、略称は「マル生運動」)が展開されたが、これが労働強化につながるとして、「マル生粉砕」を叫んで大反対闘争を展開したのが日本共産党や日本社会党などの左翼勢力だった。マスコミもこうした左翼勢力に加担したため、この生産性向上運動は挫折して終わった。左翼にしてみればこれは「勝利」ということになるのだが、これにより労働者をますます会社に甘えさせることにもなったとも言える。

 マル生反対闘争を特徴付ける言葉に「3ず主義」というものがある。それは「休まず、働かず、無理せず」だ。出勤時間にタイムカードを押すから「休まず」なのだが、求められる高い生産性では「働かず」、「無理せず」にだらだらと毎日を過ごすのがいいと考えていたわけだ。彼らはこうしたあり方が楽でいいと思っていたし、こうした動きが社会的にもっと広がれば理想的な社会主義が実現するとも思っていたのだろうと思う。だが、そんな低生産性で実現される社会主義では国民全員を豊かに暮らせるようにはできないのは当たり前であろう。国鉄が担っていた鉄道貨物輸送がどんどんと衰退し、トラック輸送に取って代わられるようになったのは、市場原理からすれば当たり前の話だ。世の中がこんな人たちばかりだったら、地球の裏側から来るグレープフルーツが1個100円で店頭に並ぶような高生産性社会は到来していないはずだ。

 この一事が万事で、弱者保護をさらに進めていくことを常に求め、労働強化につながる動きには常に反対し、結果として最も大切な生産性の向上の実現を阻んできたのが左翼勢力なのだ。そしてそれは私たちの豊かな生活を実現することから最もかけ離れた動きなのである。

 「コンプライアンス」とか「働き方改革」がうるさく叫ばれるようになって、会社が社員に気を遣い、上司が部下に気を遣うことが一般化してきた。会社が社員を大切にすることはもちろん大切なことではあるが、会社が社員に気を遣うというのは会社が社員を大切にすることとは実はズレている。会社が社員に気を遣うのは世間から後ろ指を指されない建前を用意しなければならなくなったからであって、決して会社が社員を大切にしているわけではない。会社が社員を大切にするのであれば、社員の能力をもっと開花させるためにちょっと過大かもしれないミッションを敢えて与えるようなこともありうる話だ。だがそうなると所定労働時間内にこなせると想定される量を超えてしまうことは普通に起こりうる。これがそのままコンプライアンス違反とされるようになっては、企業は思い切って大きな仕事を社員に任せるというようなことができなくなっていく。会社による社員に対するいじめとして認定されてしまう恐れもある。弱者保護の視点が行き過ぎて、企業や社会の生産性の向上にブレーキがかけられてしまうのだ。

 企業に就職する時に、会社のために精一杯貢献しようと思って就職している若者は今やいったいどのくらいいるのだろう。会社に幸せにしてもらうことを考えて就職している若者の方が実は多いのではないかと思う。自分の力で自分だけでなく周りの人たちも幸せにしてやろうと思っている若者がどのくらいいるんだろう。これまた残念ながら少数派ではないかと思う。周りの人たちはともかくとして、自分を幸せにするのは自分に力によるしかないと思っている人すら、少数派のような気がするのだ。端的に言えば、自立心が薄く、他者に依存して生きていこうとする人が圧倒的に多くなっているのではないかということだ。

 こうした依存傾向はそもそも教育の段階から広がっていると言えるだろう。元気のいい挨拶をいつも行い、人に対して気持ちよく過ごしてもらうための気遣いを当然のように払い、やるべきことを自分で見つけてそれをどんどんと行動に移していくような人材を作り出すことを、日本の公教育は意図しているだろうか。私にはそうは思えない。「だらけていても大丈夫」「頑張らなくても大丈夫」という感じで、教育現場では「熱さ」よりも「緩さ」が優先されているように感じるのだ。

 気持ちのいい挨拶ができる人とできない人ではどちらが幸せだろうか。世のため、人のために尽力できる人とできない人ではどちらが幸せだろうか。人を裏切る人と裏切らない人ではどちらが幸せだろうか。儀礼やマナーを大切にできる人とできない人ではどちらが幸せだろうか。弱い意志に負けないようにする規律を身につけている人と弱い意志に負けてダラダラとした生活を送る人とではどちらが幸せだろうか。いずれも答は明らかだろう。だが、挨拶がきちんとできないというのも一つの個性として認めるべきではないのかとか、生まれ持った障害などで世のため、人のために尽力できない人間を無駄だというのかといった屁理屈をこねて、このような人づくりを行わせないように妨害してきたのが左翼である。

 運動会の徒競走での「お手々つないでゴールイン」というのは都市伝説にすぎないだろうが、そんな伝説が本当に起こっていることだと思わせるような緩い教育が現実に行われているから、みんながそれを事実だと信じてしまうわけだ。

 授業中にじっと座っていることができず、うろうろ立ち回る生徒がクラス内に現れるなど、学級崩壊が問題になってきた時に、それを生徒の個性の発露だとして擁護する意見が出てきた時にはさすがに驚いた。「個性」の名の下にそういう子供を擁護しても、問題の解決に繋がらないだろう。授業内容をもっと面白くて役立つものに変えることなどにも努力を払うべきだと思うが、「人様のお役に立てる自立した人間になろう」という精神を生徒にきちんと植え付けていくようなあり方も大切なんだろうと思う。その点で、戦前の教育勅語や修身の教育というのは秀逸なものだった。

 左翼は無駄に階級闘争的な国家観を持ち込むがゆえに、教育勅語や修身教育を「天皇に命を捧げる人間を養成するための危険なもの」とか「資本家や国家に奉仕する従順な人間を作り上げようとする策略」のように捉えようとする。だがこのような解釈を見ると、どこまで精神がねじ曲がっているんだろうと思わざるをえない。

 現代では教育勅語を読んだことのない人は珍しくないだろうから、その要旨を以下にまとめておく。

 日本は道義・道徳を大切にするという大きな理想を掲げた国家であるが、それは我が国の伝統であり、国家と家庭のために力を尽くすことが大切である。だから、親に感謝すること、兄弟で励まし合うこと、夫婦は仲睦まじくすること、友達とは信じ合える関係を築くこと、間違ったときには謙虚に反省してやり直すこと、人に対して優しくすること、智徳を磨くこと、世のため人のために働くこと、法律やルールを守ること、祖国が危機に陥った時には率先して守るようにしよう。そしてこのようなあり方は時代を超えるだけでなく、日本以外の国でも通用する普遍性を持つものゆえ、今後も大切にしていこう。そして天皇陛下が自ら、この手本となることを宣言しているのだ。

 変に反国家的な色眼鏡を掛けずに素直に読めば、その通りだと思うような中身なのだが、左翼の手にかかると、そういうものではなくなってしまうのだ。

 個人的には子供が親に感謝することを求めているのであるから、親が子供を慈しんで育てることも入れて欲しいと思うし、年上や目上の人に対する敬意を払うことや自ら進んで気持ちよい挨拶を行うこととか儀礼やマナーを大切にすることなんかもあってもいいんじゃないかとも思う。そういう意味では改善の余地はあるのかもしれないが、少なくとも全否定するようなものではありえないだろう。

 左翼は伝統的な価値観を打ち壊していかないと革命を起こしにくいと考えているから、教育勅語や修身を目の敵にするのだが、これまで述べてきたように革命によって理想郷が実現するというのは完全な錯誤である。

 私たちが理想郷に近づく唯一の道は、社会の効率性・生産性をどんどんと高めることであって、効率性・生産性を目の敵にすることではないのだ。

 私達が住む現実の先進資本主義国家がどういう国家であるのかを先入観を廃して唯物論的に考察すれば、資本家階級が労働者階級を支配するための暴力装置のように捉えるのは間違っている。だが、共産主義者は国家を自分たちを抑圧する暴力装置として捉える見方から抜け出すことができない。そのため、「資本家」に対する絶対的な不信感をベースに、「資本家」VS「労働者」(あるいは「一般市民」)の対立構造で先進資本主義国家を捉え、階級対立的国家観の中でどこまでの陣地を「労働者」側に引き寄せられたかという陣地戦で、階級闘争の現段階を捉えがちである。だから弱者保護を「強者によるお恵み」から「人民の権利」に引き上げられた時には勝利感情が湧き、これによって社会全体の生産性が抑えられることになっても、全く気にならないということになる。自助をベースとする社会の方が望ましいのではないかと、過度な弱者保護を否定したりすれば、それは階級闘争的な面での後退だと判断し、猛烈な反撃に打って出てくる。こうして依存的な人たちが多い国家を形成することになり、それはやがて依存的な人たちの利権構造が形成されることになり、その利権構造が集票マシーンとなって制度が固定化されることにつながり、社会的な活力が失われることになる。生産性・生産力が伸び悩めば、個人の生活水準も伸び悩み、国家としての停滞を招くことになる。ところが、このように社会の活力が失われることは社会の不満を高め、革命の条件を広げるものになるものだと、左翼は密かにこういう事態になることを歓迎しているわけだ。

 面白いことに、日本の左翼は財政規律に非常に厳しい姿勢をとる。日本の財政危機はすでに1970年代から共産党を中心に主張されてきた。国債を発行してでも貧しい者を救済せよと主張する方が左翼らしいとも思うのだが、そういう立場には立たずに彼らは財政危機を煽ってきた。これは何でもいいから国家に対するイチャモンを付けたいというところから始まったものなのかもしれないとも思うのだが、おそらく現在では財政危機を煽って経済成長を止めることが日本という国家を脆弱にするのに役立つということに気が付いていて、意図的にこの危機を煽っているように、私には感じられる。

 私たちが考えるべきはこの左翼的な思考から脱却し、日本国をできる限り効率よく成長させていくのにどうすればいいのか、国力を高めながら、国民角層の豊かさをうまく引き上げられるにはどうすればいいのかを真面目に考えることである。

 企業も国民も豊かになるなら、税収は勝手に増えていく。それによって財政再建を考えるのであれば筋が通っている。だが、現状のGDPを前提として国民の持っている資産を奪い取ることで財政再建につなげようという発想がなぜか出てくるわけだ。こんな考え方がもともと破綻しているということに、我々は気がつくべきではないだろうか。

 このために長期ビジョンに基づいて積極的に国土を効率の高いものへと変えていく投資を政府は考えていくべきである。たとえば、整備新幹線計画は旅客だけでは投資的に採算に載せるのは不可能だろうし、二の足を踏むことも理解できる。だがここに貨物輸送も組み合わせれば、採算性は随分向上させられるだろうし、地域産業を勃興させる起爆剤にもなるだろう。人もモノも迅速に動かせるのであれば、工場や農地を地価の高い首都圏近郊に求める必要性は低くなるからだ。山陰や四国で作られた農産物や工業部品が半日で首都圏に大量に運び込めるようになれば、山陰や四国の経済は間違いなく活性化する。もちろん北陸や東北や北海道であっても同じことが言える。国力を高めるために、日本国土の需要力も供給力も同時に効率よく高め、国土全体の生産性を引き上げなくていくべきなのだ。そのために何をすればよいのかを考えるのが本来の国家の役割であるはずだ。土建業者を安易に儲けさせる有効需要を作り出すという観点からではなく、本気で日本国土の生産性を向上させるためにどういう投資を行ったらいいのかを、徹底的に真剣に考えるべきなのである。

 このような方向で政府の政策が実行されれば、国家の力は間違いなく高まる。国家の力を高めるような政策は左翼の直感からすると脊髄反射的に否定されるべきことなのだろうが、左翼の人たちが本来求めている貧者の生活向上に最も繋がるのがこうした政策なのだということを見落とさないでもらいたい。生産性が向上し、国力が増進すれば、それだけ弱者救済が進むのだ。豊かな国と貧しい国でどちらが弱者救済が簡単かは、考えるまでもなく明らかだろう。国民の利益、あるいは弱者の利益と総資本の利益は基本的には一致するという当たり前の現実を、左翼は真面目に考えるべきなのだ。

 左翼の人たちや左翼の思想的影響を受けた人たちがこれまでの自分たちの思い違いに気がつき、生産性向上を徹底的に図るこそが私たちの理想郷への道なのだと悟った時に、日本は間違いなく強力な復活の道を歩み始め、理想郷にどんどんと近づいていく。そしてそれが世界全体のムーブメントとなる時、世界もまた理想郷への道を歩み始めることになるのである。

 このような正しい道筋に日本が、世界が気がついて、それに向かって全力で動き出すようになるようになることが私の夢である。

 よろしければ、ブログランキングへの投票をお願いいたします。(下の画像をクリック!)

スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

朝香豊AY

Author:朝香豊AY
FC2ブログへようこそ!