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習近平はどうやって権力を集中させたか



 「法治」という言葉は通常「人治」という言葉との対比で用いられる。「人治」は文字通り「人が治める」ということで、権力を持つ者が自分の判断で善悪を判断して、認めたり罰したりする統治方法だ。こういうことが行われれば人は権力者に擦り寄るようになり、賄賂や情実によって結果が左右されることになりがちだ。こういう統治はいい結果に繋がらないということで、「法治」が大切だということになった。すなわち「法治」とは、あらかじめルール(法律)を定めておき、そのルールを守って全員が行動することを求め、ルールに違反すると平等に処罰の対象となるというような仕組みである。そしてルール作りにおいては人権を不当に侵害しないように配慮し、これによって国家による不当な権力介入が起こらないように定めるという感じだ。近代国家においてはこういう「法治」は当然の仕組みだと考えられるようになっている。

 ところで、「法治」という言葉は「徳治」という言葉との対比としても使われる。「徳治」というのは儒教の教えで、権力者が徳の高い人であれば、人々はその人に自然についていくものであるという考えだ。だが、周辺国との戦いがあり、情報工作のスパイが国内で暗躍したりもするというリアリティに直面したとき、こんな理想主義では国はもたないという考えもある。情をかけてやったからって人はそれに応えてくれるとは限らないし、カネに転ぶことも多いし、敵のスパイにだってホイホイなってしまうことさえあるのが現実だ。そしてこういう文脈の中で「法治」が語られることもある。すなわち、人間は情をかけてやってもそれに応えてくれるなどと思うのは甘いのであり、人間は徹底的にルール(法律)によって縛り上げて、好き勝手な動きができないようにすべきだという意味での「法治」である。この「法治」は韓非子によって唱えられ、秦の始皇帝が採用したことでも知られる。

 気をつけたいのは「人治」に対する「法治」と「徳治」に対する「法治」は似て非なるものだということだ。すなわち、始皇帝は「徳治」に対する「法治」は徹底したが、その法(ルール)をどのように運用するかについては「人治」で判断していたわけだ。そして褒美を与える権能も罰を与える権能も自らの手に集中させ、これにより最高権力者として君臨した。

 この2つの権能の中で、より大切なのは罰を与える権能である。権力者にしても嫌な奴だとは思われたくないので、罰を与えて恨みを買う役目は他の者にやらせたがる傾向にある。だがこれをやってしまうと、人々は罰を与える側に恐れを抱き、本来の権力者よりもそちらの側の意向に従うようになりがちだ。そうなると事実上権力が移行してしまうことになってしまう。そしてこの仕組みをうまく利用したのが習近平だ。

 習近平を総書記として中国共産党のトップに据えたのは長老たちだ。だから習近平が総書記になったからと言って、習近平が何でもかんでも好きなようにできたかというと、実はそういうわけではなかった。自分を立ててくれた長老たちの意向を汲んで動く必要もあったのだ。

 だが、習近平は褒美を与える権能については当初は長老たちに配慮しつつ、人々から恨みを買いやすい罰を与える権能を敢えて自分に集中させるようにした。これにより長老たちの反発を抑えていたのだが、人々はやがて罰を与える権能を集中して持つ習近平こそを完全な権力者として認識するようになっていった。このようにして、習近平は自らの手に権力を集中させることに成功し、始皇帝並みの強力な独裁が展開できるようになっていったのである。

 習近平が言う「法治」を、我々が思う「法治」と同一視してはならない。また、私たちが「日中友好」を口にする時に、相手となる中国の権力者は始皇帝ばりの独裁者であるという現実を忘れてはならない。習近平が周辺国と平等互恵でウィンウィンの関係を築こうとするなどとは、ゆめゆめ思わないほうがいいのである。

 上記の話はYouTubeの「妙佛散歩」を参考に書きましたが、私が話を変えているところもあり、このブログの文章に問題があるとすれば、それは私の責に負うべきものだということを付記しておきます。
https://www.youtube.com/watch?v=MRTza-fthHo

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